前回記事:沖縄フォト紀行2010(4) 読谷村のガマを見る
http://www.janjannews.jp/archives/2453148.html
「沖縄は日本ではない」
15世紀に成立した琉球王国は、1879年に沖縄県となるまで、アジア有数の貿易国として隆盛を極めていた。自然、人、文化、歴史、どれをとっても「大和」と一味違うのは、そのためである。私は、沖縄滞在中に、年配の人から、「大和」という言葉を何度も聞いた。それは、沖縄以外の日本を指す言葉のようだ。北海道の「内地」に当たる言葉に近いのだろうが、沖縄の人々の複雑な思いを感じる。
案内人のよしさんの口癖は、「沖縄は日本ではないきね」であった。「同じ日本と考えていたら、わからなくなるわよ」というアドバイスかと思う。反戦平和のために世界を股にかける彼女にしてみれば、その言葉の中に様々な思いが去来しているのだろうと思う。今回の旅は、普天間基地の移設問題に端を発して企画されたものなので、訪れる場所も人も観光とは程遠かった。確かに、よしさんの豊富な人脈によって、特別中味の濃い旅となった。
『かわら焼くけむり』
『日本の伝説(南日本編)』(偕成社文庫)の中に『かわら焼くけむり』という沖縄の伝説があり、およそこのような話である。
琉球王国は、長年独力で瓦を焼くことができなかった。あるとき、中国から、瓦職人を招いて、その技術を習得させることになった。琉球に来ることを承諾した中国人の瓦職人は、独身であったので、「琉球には美人が多いと聞いております。私が望む女を妻にさせていただけるなら、琉球に骨をうずめる覚悟で参りましょう」といった。遣いの者は、「おやすいことです。琉球に着いたら、好きな女をさがしください」といった。ところが、琉球に来た瓦職人は、野菜売りの人妻を好きになってしまったのである。
人妻の名はウタ、その夫の名はサンラー、場所は中城村の安谷屋、と話はとても具体的なのである。琉球王国は、琉球の瓦産業のために、ウタとサンラーの仲を引き裂いて、中国人の瓦職人の願いをかなえてやるのである。そして、中国人から琉球の島々から選ばれた職人たちが瓦作りを習い始めるのである。ウタは、侍女にかしずかれ、贅沢をさせてもらうが、幸せではなかった。
ウタとサンラーの間には、男の子が1人いた。サンラーは「母親は死んだ」と言い聞かせて、その子を育てていた。しかし、その子は7歳になったとき、行商中にウタに出会ってしまうのである。そして、自分の母親が泣く泣く瓦職人の妻にさせられていることを聞き及ぶに至る。
そして、子どもは、台風の夜、手に大きな草刈り鎌を持って、唐人屋敷へと走るのである。子どもは、嵐に紛れ、唐人の部屋におどりこむと、長い辮髪の首を押し切ったのである。
その事件以来、沖縄では立派な瓦が焼けるようになったこと、今も沖縄には、ウタの悲しみを歌った瓦屋節という民謡が残っていることを明かしてその伝説は結ばれている。
私が、この話で不審に思うのは、7歳の子どもにそんなことができるだろうかということであった。また、何もかもが具体的なのに、子どもの名前が語り伝えられていないこと、そして、事件後、子どもがどうなったかがまったく語り伝えられていないことであった。この話を読んでから、私が次に沖縄の瓦の話に出会うのは、それから400年くらい後かと思われる首里城復元の赤瓦の話なのである。
首里城の復元

第二次世界大戦中、日本軍が首里城の地下に総司令部を置いていたことから、1945年5月25日から3日間、アメリカ軍艦ミシシッピなどからの砲撃を受け、27日に首里城はあえなく焼失した。
『炎を見ろ-赤き城の伝説』(伴田薫)を読むと、その首里城を復元するにあたって、首里城の赤瓦を焼く職人がなかなか見つからなかったことが記されている。そして、瓦業者を集めた会合が開かれ、その場に、1人「僕がやります」と手を挙げた青年がいたことが記されている。その青年が、画家の奥原崇典である。彼は、瓦職人であった父・崇実のアドバイスを受けつつ、失敗に失敗を重ね、幾多の困難を乗り越え、5千5百枚の赤瓦を焼き上げることに成功する。首里城の竣工式は、1992年11月2日のことで、焼失後、実に47年の歳月が流れていた。
瓦産業にも基地問題の影か?

米軍の普天間基地を取り囲む住宅群は、白い箱のような住宅がほとんどで、伝統的な瓦を使っている住宅はほとんど見かけなかった。これでは、瓦屋の生活が成り立たないだろう、と思った。4日間、北部以外のいろいろな場所に行ったが、私はいつもそのことが気にかかった。どこも皆同じようにこざっぱりしていて、住宅に生活の臭いというものを感じなかった。沖縄の赤瓦の家々を想像していた私には期待はずれであった。

私は、最後の日は、皆と別行動をとって、観光客のように首里城に向かうことにした。入り口のガードマンに聞くと、首里城には年間200万人が入場しているということだった。首里城もまた、「沖縄は日本ではない」ことを感じさせるに十分な建物であった。日本の城とはまったく異質で、どちらかというと中国の紫禁城をほうふつとさせる建物であった。壁の漆を塗り替えているということで、一部にシートがかぶせてあったが、奥原崇典が苦心して作った伝統の赤瓦を見ることはできた。その赤瓦は、中国人が命がけで琉球に伝えたものだったらしいのである。
(参考資料)
『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』(屋嘉比収著・世織書房)
『命こそ宝』(阿波根昌鴻著・岩波新書)
(関連記事)
沖縄フォト紀行2010(1) 普天間基地を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2371571.html
沖縄フォト紀行2010(2) 辺野古の海を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2394948.html
沖縄フォト紀行2010(3) 伊江島の畑を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2428596.html
沖縄フォト紀行2010(4) 読谷村のガマを見る
http://www.janjannews.jp/archives/2453148.html
沖縄フォト紀行2010(5) 首里城の赤瓦を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2479706.html
沖縄フォト紀行2010(6) 佐喜眞道夫さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2514920.html
沖縄フォト紀行2010(7) 豊見山雅裕さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2542706.html
沖縄フォト紀行2010(8) 謝花悦子さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2564024.html
沖縄フォト紀行2010(9) 知花昌一さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2575712.html
沖縄フォト紀行2010(10) 金城実さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2600735.html
沖縄フォト紀行2010(11) 藤本幸久さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2613694.html
沖縄フォト紀行2010(12) くずめよしさんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2771440.html
沖縄フォト紀行2010(13) まとめ
http://www.janjannews.jp/archives/2821192.html
http://www.janjannews.jp/archives/2453148.html
「沖縄は日本ではない」
15世紀に成立した琉球王国は、1879年に沖縄県となるまで、アジア有数の貿易国として隆盛を極めていた。自然、人、文化、歴史、どれをとっても「大和」と一味違うのは、そのためである。私は、沖縄滞在中に、年配の人から、「大和」という言葉を何度も聞いた。それは、沖縄以外の日本を指す言葉のようだ。北海道の「内地」に当たる言葉に近いのだろうが、沖縄の人々の複雑な思いを感じる。
案内人のよしさんの口癖は、「沖縄は日本ではないきね」であった。「同じ日本と考えていたら、わからなくなるわよ」というアドバイスかと思う。反戦平和のために世界を股にかける彼女にしてみれば、その言葉の中に様々な思いが去来しているのだろうと思う。今回の旅は、普天間基地の移設問題に端を発して企画されたものなので、訪れる場所も人も観光とは程遠かった。確かに、よしさんの豊富な人脈によって、特別中味の濃い旅となった。
『かわら焼くけむり』
『日本の伝説(南日本編)』(偕成社文庫)の中に『かわら焼くけむり』という沖縄の伝説があり、およそこのような話である。
琉球王国は、長年独力で瓦を焼くことができなかった。あるとき、中国から、瓦職人を招いて、その技術を習得させることになった。琉球に来ることを承諾した中国人の瓦職人は、独身であったので、「琉球には美人が多いと聞いております。私が望む女を妻にさせていただけるなら、琉球に骨をうずめる覚悟で参りましょう」といった。遣いの者は、「おやすいことです。琉球に着いたら、好きな女をさがしください」といった。ところが、琉球に来た瓦職人は、野菜売りの人妻を好きになってしまったのである。
人妻の名はウタ、その夫の名はサンラー、場所は中城村の安谷屋、と話はとても具体的なのである。琉球王国は、琉球の瓦産業のために、ウタとサンラーの仲を引き裂いて、中国人の瓦職人の願いをかなえてやるのである。そして、中国人から琉球の島々から選ばれた職人たちが瓦作りを習い始めるのである。ウタは、侍女にかしずかれ、贅沢をさせてもらうが、幸せではなかった。
ウタとサンラーの間には、男の子が1人いた。サンラーは「母親は死んだ」と言い聞かせて、その子を育てていた。しかし、その子は7歳になったとき、行商中にウタに出会ってしまうのである。そして、自分の母親が泣く泣く瓦職人の妻にさせられていることを聞き及ぶに至る。
そして、子どもは、台風の夜、手に大きな草刈り鎌を持って、唐人屋敷へと走るのである。子どもは、嵐に紛れ、唐人の部屋におどりこむと、長い辮髪の首を押し切ったのである。
その事件以来、沖縄では立派な瓦が焼けるようになったこと、今も沖縄には、ウタの悲しみを歌った瓦屋節という民謡が残っていることを明かしてその伝説は結ばれている。
私が、この話で不審に思うのは、7歳の子どもにそんなことができるだろうかということであった。また、何もかもが具体的なのに、子どもの名前が語り伝えられていないこと、そして、事件後、子どもがどうなったかがまったく語り伝えられていないことであった。この話を読んでから、私が次に沖縄の瓦の話に出会うのは、それから400年くらい後かと思われる首里城復元の赤瓦の話なのである。
首里城の復元

沖縄戦で破壊された首里城は、1992年に見事に復元された。現在、壁の修復工事中だが、赤瓦を見ることはできた。(以下、すべて筆者撮影)
第二次世界大戦中、日本軍が首里城の地下に総司令部を置いていたことから、1945年5月25日から3日間、アメリカ軍艦ミシシッピなどからの砲撃を受け、27日に首里城はあえなく焼失した。
『炎を見ろ-赤き城の伝説』(伴田薫)を読むと、その首里城を復元するにあたって、首里城の赤瓦を焼く職人がなかなか見つからなかったことが記されている。そして、瓦業者を集めた会合が開かれ、その場に、1人「僕がやります」と手を挙げた青年がいたことが記されている。その青年が、画家の奥原崇典である。彼は、瓦職人であった父・崇実のアドバイスを受けつつ、失敗に失敗を重ね、幾多の困難を乗り越え、5千5百枚の赤瓦を焼き上げることに成功する。首里城の竣工式は、1992年11月2日のことで、焼失後、実に47年の歳月が流れていた。
瓦産業にも基地問題の影か?

米軍の普天間基地を取り囲む住宅群。現在の沖縄の住宅は白い箱のような住宅が大多数で、伝統的な瓦を使っている住宅はほとんど見かけない。
米軍の普天間基地を取り囲む住宅群は、白い箱のような住宅がほとんどで、伝統的な瓦を使っている住宅はほとんど見かけなかった。これでは、瓦屋の生活が成り立たないだろう、と思った。4日間、北部以外のいろいろな場所に行ったが、私はいつもそのことが気にかかった。どこも皆同じようにこざっぱりしていて、住宅に生活の臭いというものを感じなかった。沖縄の赤瓦の家々を想像していた私には期待はずれであった。

伊江島で見かけた瓦屋根。伊江島でも瓦を使っている住宅は、ほとんど見かけない。昭和30年代以降、瓦職人にとって厳しい時代が続いている。
私は、最後の日は、皆と別行動をとって、観光客のように首里城に向かうことにした。入り口のガードマンに聞くと、首里城には年間200万人が入場しているということだった。首里城もまた、「沖縄は日本ではない」ことを感じさせるに十分な建物であった。日本の城とはまったく異質で、どちらかというと中国の紫禁城をほうふつとさせる建物であった。壁の漆を塗り替えているということで、一部にシートがかぶせてあったが、奥原崇典が苦心して作った伝統の赤瓦を見ることはできた。その赤瓦は、中国人が命がけで琉球に伝えたものだったらしいのである。
(参考資料)
『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』(屋嘉比収著・世織書房)
『命こそ宝』(阿波根昌鴻著・岩波新書)
(関連記事)
沖縄フォト紀行2010(1) 普天間基地を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2371571.html
沖縄フォト紀行2010(2) 辺野古の海を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2394948.html
沖縄フォト紀行2010(3) 伊江島の畑を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2428596.html
沖縄フォト紀行2010(4) 読谷村のガマを見る
http://www.janjannews.jp/archives/2453148.html
沖縄フォト紀行2010(5) 首里城の赤瓦を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2479706.html
沖縄フォト紀行2010(6) 佐喜眞道夫さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2514920.html
沖縄フォト紀行2010(7) 豊見山雅裕さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2542706.html
沖縄フォト紀行2010(8) 謝花悦子さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2564024.html
沖縄フォト紀行2010(9) 知花昌一さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2575712.html
沖縄フォト紀行2010(10) 金城実さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2600735.html
沖縄フォト紀行2010(11) 藤本幸久さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2613694.html
沖縄フォト紀行2010(12) くずめよしさんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2771440.html
沖縄フォト紀行2010(13) まとめ
http://www.janjannews.jp/archives/2821192.html
