青木岳陽

前回記事:いまこそ中国論(9) 現代中国の民族問題
http://www.janjannews.jp/archives/2484513.html

 1.はじめに
 今年は日韓併合100年ですが、朝鮮戦争60年という節目の年でもあります。日本帝国主義の植民地支配を35年もの間忍び、ようやく解放されたと思いきや米ソの冷戦に巻き込まれて南北に分断され、冷戦がとっくに終わった現在も対立を続ける。地政学的に微妙な位置にあるとはいえ、韓国と北朝鮮はなんて重い運命を背負わされるのでしょう。
 
 しかし、筆者は先日来、朝鮮半島のことを調べていて、ふと、朝鮮半島の分断は必然ではなかったのではないか、と思うようになりました。逃れられない運命のように語られる東西冷戦にしても、当初は米ソ両国とも朝鮮半島を闘争の場にすることに消極的で、朝鮮国内には左右両派を超えて信頼される指導者もいました。ことによれば、南北は分断されず、日本との間にも「竹島・独島」問題や在日韓国・朝鮮人問題さえ起きず、平和的な関係が築かれる可能性があったのです。
 
 しかし、米国から帰国した李承晩と、ソ連から帰国した金日成という特異な性格の2人の指導者が、何度となく試みられた左右・南北勢力の合作をつぶします。1950年の朝鮮戦争直前まで南北協商は多くの人々によって模索されており、両巨頭が朝鮮民族のために腹を割って話し合い、明治維新の勝海舟と西郷隆盛のように、立場を捨てて統一を維持していれば、あるいは国家分裂がきわどく避けられたかもしれません。
 
 問題は、李承晩も金日成も、独立活動を海外に頼ってきたので、バックにある米ソ両国の意向に沿わないと権力を維持できない傀儡構造だったことでしょう。
 こうして、李承晩と金日成が繰り広げる権力闘争と、東西冷戦下の米ソ覇権争いがシンクロし、さらには米ソ両国の思惑を超えて暴走を始めます。米国は好戦的すぎる李承晩を疎んじ、ソ連は開戦にはやる金日成を諌めますが、結局、朝鮮戦争を契機に南北対立は泥沼化してしまいました。
 あまり触れられることのない朝鮮戦争直前の朝鮮半島を振り返りたいと思います。
 
 2.呂運亨と朝鮮建国準備会
 1945年8月10日、本国からポツダム宣言受諾の通報が京城(ソウル)の朝鮮総督府にもたらされます。前日には北端の朝ソ国境を破ってソ連軍が朝鮮半島北部に侵攻中であり、朝鮮半島全体がソ連軍の手に落ちる日も近いと思われました。
 そこで、朝鮮総督府政務総監・遠藤柳作はソ連軍による占領よりも早く、ポツダム宣言で独立回復が約束されている朝鮮人に主権を渡そうと考えました。遠藤は独立派の重鎮であった呂運亨と会談して、朝鮮在住日本人の安全を朝鮮建国準備会(建準)に託します。
 
 社会主義者として知られた呂運亨は1919年の三一独立運動をきっかけに上海の大韓民国臨時政府に参加、1930年に日本当局により逮捕、投獄されたのちは、朝鮮中央日報社長を務めながら密かに朝鮮建国準備会を組織しており、左右両派から信頼の厚い人物でした。
 日本人に対しても、終戦直前に「日韓相扶け、相和する天機」だと語り、朝鮮独立のために戦後日本との提携が必要だと考えていました。
 
 総督府の要請に対し、呂運亨は政治犯の釈放や、朝鮮人の独立活動への不干渉を条件に受け入れます。「光復」の8月15日に発足した建準はスムーズに権力委譲を受け、建国青年治安隊を発足させました。建準は朝鮮人の広範な支持を受け、治安維持の呼びかけにも応じたので、終戦直後の南朝鮮では、日本人に対する危害は十数件にすぎませんでした。
 
 一方、日本の植民地支配の間に、朝鮮国内の保守派は日本側に取り込まれ、社会主義者など左派は徹底的な弾圧を受けたので、1万6千人もの政治犯の釈放を受けて発足した建準は必然的に左派中心の組織になりました。これに反発する右派や親日派は、南朝鮮に上陸する米軍に期待することになります。

 3.連合国の思惑と海外独立勢力
 一方、連合国は日本の戦後処理についての構想は練っていましたが、朝鮮半島については何も決まっていませんでした。中華民国は朝鮮の即時独立を主張します。ソ連は国境付近の安定のため朝鮮北部の占領を考えます。米国はフィリピン統治の経験から、自治・統治能力を欠くアジア人の後見、訓練期間が必要だと主張します。英国はアジア植民地独立運動への波及を恐れます。大国の思惑で朝鮮半島の独立回復は時期尚早とされました。
 
 しかし、米英中ソ四カ国による20~30年間の信託統治を実施する以外に、具体的な統治方法も決まりませんでした。ちなみに、北緯38度線は米ソ両軍による日本軍の武装解除線として設定され、当初は国境線でも何でもありません。
 
 朝鮮の主要独立勢力は海外に逃れて活動していました。右派の代表は中国重慶の国民政府と行動を共にする大韓民国臨時政府(臨政)、左派の代表は中国共産党やソ連軍に編入されていた満州国境のパルチザンです。
 そして、臨政の保守独立派重鎮でありながら、上海での独立運動時代に米国政府に対して朝鮮の米国委任統治を請願して、臨政から追い出され、米国でロビー活動を続けた李承晩がいました。
 これら海外の独立勢力は、突然の日本降伏によって解放がもたらされたので、すぐには帰国できませんでした。

 4.朝鮮人民共和国の挫折
 1945年9月8日に米軍が仁川に上陸します。米軍は朝鮮総督府との談合で発足した建準について、日本の手先だと疑いました。そこで、建準は米軍と交渉する政府を樹立するため、9月6日、朝鮮人民共和国の建国を宣言し、閣僚リストを公開します。
 左右両勢力のバランスを取った挙国一致政権とするため、海外勢力の李承晩を主席とし、人民委員に金日成まで含んだ政府閣僚でしたが、実際は海外勢力には連絡が取れませんでした。
 
 なお、朝鮮人民共和国には、朝鮮共産党の朴憲永(のち北朝鮮副首相)などが参加していますが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と直接的な関係はありません。
 
 米軍のホッジ中将は朝鮮人民共和国の独立を直ちに却下し、米軍政庁を設立しました。日本政府は米軍に、朝鮮の治安を共産主義者が乱していると証言し、朝鮮人英語通訳の多くも反共主義者でした。それらの情報を鵜呑みにした米軍政庁は、青年治安隊を解散させて、警察機構を復活させるなど、日本統治時代に逆行するような政策を取りました。
 
 さらに、建準の参加者には日本に弾圧された左派人士が多いため、日本統治下で経済活動を担っていた全羅道の湖南財閥など保守派人士は、韓民党を結成して建準に対抗しました。
 一方、海外勢力も臨政人士や李承晩が次々帰国して、日本統治下にいた建準よりも自分たちこそ正統な朝鮮政府だと各々主張を始めます。このとき、南朝鮮の政治勢力は、米軍政庁、臨政、李承晩と韓民党、建準がありました。
 李承晩は極端な日本嫌いですが、米国亡命時代のロビー活動で米軍に信頼され、あえて親日派の韓民党と組むことで、朝鮮国内での支持基盤を得ようとします。