青木岳陽

 前回記事:いまこそ中国論(11) 朝鮮半島1945~1950(2)
 http://www.janjannews.jp/archives/2524067.html
 
 11.南朝鮮単独選挙と李承晩政権の発足
 1948年5月、全有権者の8割が参加した南朝鮮単独選挙は、投票率90%で成功したと国連が発表します。
 実際には、警察、右翼の恫喝によって強制的に市民を動員して行われたもので、参加した政党も李承晩派、韓民党など、右派のうち南朝鮮単独独立を主張する者だけでした。右派でも、金九など南北協商派は選挙の無効を主張します。
 
 6月、国連は南朝鮮制憲国会を承認し、大韓民国の国号や、大統領制の憲法、朝鮮全土を領土範囲とすると決議し、国会で李承晩を初代大統領に選出します。
 
 李承晩は当時すでに70歳、帰国時には独立の老闘士だと歓迎されましたが、実は米国政府に朝鮮委任統治を請願して、上海時代に臨政から除名されています。韓国内に支持基盤を持たず、左右両派からの信頼もないので、心ならずも親日派の地主や財閥と結び、米国の後押しを受けていました。
 しかし、李承晩は議院内閣制度を主張する親日派・韓民党とも対立し、その勢力を徹底的に排除して、独裁的な大統領権限の強化に努めました。
 
 12.大混乱に陥る大韓民国
 1948年8月15日、ソウルで大韓民国が成立し、ホッジ中将の米軍政庁は廃止されました。しかし、支持基盤のない李承晩政権は安定せず、10月には単独選挙から続く済州島鎮圧への出動を拒否した韓国軍が反乱を起こして麗水・順天を占拠する事態に発展します。
 李承晩は、鎮圧部隊を派遣して1万人以上の反乱兵を殺害する一方、韓国軍内の8千人を超える左派将兵の粛清を実施しました。のちの軍事政権大統領・朴正煕も共産党員容疑で左遷されています。
 
 12月には共産主義者弾圧のため、日本統治時代の治安維持法を範とする国家保安法を施行します。政府転覆のための結社集会を禁止し、北朝鮮を「反国家団体」として一切の接触を禁止しました。北朝鮮支持者はもちろん、反李承晩、反米活動も厳しく処罰され、1949年だけで同法違反により12万人の市民が検挙されました。
 1949年6月、南北協商派の重鎮・金九が暗殺され、李承晩最大のライバルが消えました。
 
 李承晩政権は、10月に133の政党・団体に解散命令を出し、同年末までに逮捕者48万人、うち投獄者15万人、さらに刑死・獄死が9万人というすさまじい弾圧を行いました。さらに、これら検挙者とその家族を国民保導連盟として組織し、反共思想教育を行いました。
 保導連盟員には食料の優先配給があったので参加者が多く、警察や地方役所の点数稼ぎで勝手に登録された市民もありましたが、1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、北朝鮮に呼応する危険があるとされて韓国軍や警察の虐殺対象になり、20万人以上が殺害されました。
 北朝鮮占領下でも保導連盟員は転向者として虐殺され、南北両軍から迫害を受けました。日本からの帰国者の中には、迫害を逃れて再び日本へ戻る者も少なくありませんでした。
 
 李承晩自身は反共主義者であると共に、強烈な反日主義者でしたが、支持基盤を日本統治時代からの警察や地主、財閥といった親日派に頼る弱みがありました。
 国会で反民族行為処罰法が可決され、親日派の調査・処罰が行われると、李承晩は調査委員会が親共派であるとして、5月、国会内に警察を踏み込ませ、金若水副議長など国会議員を検挙・投獄します。一方、親日派地主を解体する農地改革法は、全体の38%が実施されたのみでした。
 
 韓国経済も崩壊していました。1948年3月、朝鮮半島で水力発電所の多くが存在する北朝鮮からの敵対的いやがらせで電力供給が停止され、産業が大混乱します。1949年の歳出の6割が赤字、物価は米軍政時代の2倍に達する一方で、工業生産額は日本統治時代のわずか18%に落ち込んでいました。
 
 13.暴走する李承晩と米国の動揺
 1948年12月、ソ連軍が北朝鮮から撤退すると、米国は韓国政府と米韓軍事協定を結んで、1949年6月に少数の軍事顧問団を残して米軍を韓国から撤退させます。
 
 韓国軍は日本軍将兵経験者と、第二次大戦中に米軍の特殊訓練を受けた独立軍(実戦経験はない)が中心で、指揮・訓練系統や兵器系統に旧日本軍と米軍仕様がばらばらに混じっていました。
 
 さらに、李承晩大統領が「北進統一」を主張して北朝鮮との軍事対決を煽るため、米国は好戦的な韓国政府を警戒して、韓国軍に軽火器を供与しただけでした。
 また、李承晩の日本憎悪は徹底していました。日本に軍事報復すると唱え、連合国軍総司令部に対馬割譲を要求してマッカーサー元帥から疎まれます。朝鮮戦争開戦後に釜山付近に追い込まれた際には、韓国軍が日本の福岡付近を占領して亡命政府を作ることを企図し、日本首相・吉田茂から拒否されました。すると、戦時下の日本海に一方的な李承晩ラインを設けて竹島を占拠し、日本漁船を攻撃します。
 
 朝鮮戦争直前の1950年5月、第二回総選挙で李承晩派は惨敗し、北朝鮮との平和統一を図る南北協商派が圧勝しました。国会でも孤立した李承晩は、より一層強烈な北進統一論を主張、38度線沿いで南北両軍の小競り合いが頻発して、一触即発状態になりました。
 
 一方、北朝鮮の金日成は、虎視眈々と南進統一の機会を伺っていました。
 米国は50年1月、前年の中華人民共和国成立を受けてアチソン国務長官が極東防衛線を唱えますが、日本列島とフィリピンが含まれても韓国防衛には言及されません。米国は李承晩政権の暴走に手を焼いており、中国革命の波及を恐れながらも対韓国政策が動揺していました。金日成は朝鮮半島情勢に米国は介入しないと判断しました。