前回記事:いまこそ中国論(12) 朝鮮半島1945~1950(3)
http://www.janjannews.jp/archives/2533063.html
14.ソ連軍の北朝鮮占領
さて、北朝鮮はどんな状況だったのでしょうか。1945年8月9日に朝ソ国境を破って侵攻したソ連軍は、8月13日に清津を占領した時点で日本が敗戦します。そののち、8月21日、ソ連軍が日本海側の咸興に進駐すると、咸鏡南道の日本人知事から行政権を接取して、朝鮮人民委員会に委譲する占領政策を取りました。
これは咸興方式と呼ばれ、9月までにソ連軍が進駐した北緯38度線以北の地域で適用されました。
一方、8月15日にソウルで成立した建国準備会は、平安南道など北朝鮮各地でも自治組織を立ち上げ、曹晩植を代表に立てていました。
ソ連は9月20日に北朝鮮の占領方針を発表し、無理なソビエト化はせず、広範な人民代表によるブルジョワ民主主義政権を樹立する、としましたが、一方で、ソ連軍進駐地域に成立した建準を人民委員会と合作させ、ソ連人顧問を置きます。
15.金日成の誕生
9月19日、元山港に金成柱が到着しました。金成柱は父親に付いて満州に移民したのち、1933年から満州の東北抗日連軍に参加して頭角を現したパルチザン指導者です。中国共産党に所属したあと、関東軍の攻撃を逃れて1941年にソ連領へ脱出、ソ連極東軍の高麗人部隊を率いる部隊長になり、訓練を受けていました。
ソ連領沿海州には日本統治を嫌って逃げ込む朝鮮人が多く居住して、高麗人と呼ばれましたが、1930年代から高麗人を日本のスパイだと疑ったスターリンにより、中央アジアなどに民族ごと追放されていました。
第二次大戦が終盤になると、スターリンは高麗人を武装させて朝鮮を解放する構想を練り、実戦に間に合わなかったものの、ソ連極東軍に高麗人部隊を創設しました。これら海外勢力の朝鮮人は満州派と呼ばれて、ソ連軍占領行政を支えていきます。
10月、キリスト教民族主義者・曹晩植が委員長を務める北朝鮮五道行政局が成立します。一方、ソ連は金成柱を北朝鮮指導者にすることを考え、伝説的な抗日英雄の名を取って金日成に改名させた上で、10月の平壌市民大会に引っ張り出します。
市民は「朝鮮王朝の将軍が日本に抵抗して満州で活躍した」という英雄伝説から、白髪の老将軍を想像していましたが、実際に現れた金日成が33歳の若者だったので動揺しました。しかし、演説の巧みさは市民の疑惑を熱狂に変え、金成柱改め金日成は北朝鮮の実権を握ります。
16.北朝鮮における南北平和統一の挫折
ソ連占領下の北朝鮮でも、実は南北平和統一をめざす動きがありました。1945年11月、チスチャコフ将軍の非共産政権樹立声明を受けた曹晩植は、朝鮮民主党を結党して、金日成に合作を申し入れます。共産主義者の金日成も合意し、朝鮮独立、南北統一、民主主義の確立を掲げる民主党には30万人の党員が集まりました。
しかし、同月、新義州でソ連占領軍の横暴に抗議する学生デモに警察が発砲、23人が死亡、700人以上が負傷する事件が発生します。金日成はデモを反共・親日反動分子の仕業とし、キリスト教徒の多い平安道に不満を残します。
12月、金日成は朝鮮共産党北朝鮮分局の第一書記に就任し、まず北朝鮮を改革して民主基地とし、のちに全朝鮮を解放するという「民主基地」論を唱えます。
曹晩植は、民主基地論が朝鮮の分断を固定するとして反対し、先に南北統一政府を作り、その後改革を行うよう主張しました。また、曹晩植は、12月のモスクワ四カ国外相会談で決まった米英中ソ四カ国による信託統治に反対運動を唱えたため、行政局委員長を辞職させられたうえ、ソ連当局によって軟禁されます。
金日成は、曹晩植を「民主主義の敵」と弾劾し、朝鮮民主党は朝鮮共産党北朝鮮分局に吸収合併されました。
17.金日成政権の確立
1946年2月に五道行政局は北朝鮮臨時人民委員会と改称し、金日成政権が成立します。臨時人民委員会は3月から地主の土地を全て没収して農民に分配する土地改革を実施し、8月には重要産業国有化を実施、急速な社会主義化を行って親日派を一掃しました。
金日成は、ソウルに党中央を置く朝鮮共産党の支部であった北朝鮮分局を、北朝鮮共産党に改称して独立させます。さらに「民主基地」への組織一本化と称して国内政党、諸団体を糾合して北朝鮮労働党を発足させました。こうして、南北分断の固定化が進むと同時に、南朝鮮の左派運動を北朝鮮が指導するという北の優位性が確立しました。
1948年の済州島事件や麗水順天反乱事件は、南朝鮮の共産革命が近いことを思わせました。北朝鮮は地下に潜った南労党を指導して、南朝鮮各地の農村や中小都市で韓国軍や警察に対するゲリラ戦やテロ活動を展開します。
一方の北朝鮮国内の建設では、金日成の唱える「やれるときに一気にやって印象を残す」遊撃隊方式の改革が熱狂的な支持を受けて、経済的に困窮する南朝鮮に対して、北朝鮮では農業生産、工業生産ともに急上昇します。
抵抗者は弾圧されるか、38度線を越えて南へ逃げたので、政治的な反対者もなくなりました。しかし、国家建設のスタートがうまく行き過ぎたことは、金日成に対する個人崇拝の風潮を生み、金日成もだんだん自信過剰になっていきました。
18.南北協商の挫折と北朝鮮の単独政権化
1947年8月、金日成はモスクワ協定の米英中ソ四カ国朝鮮信託統治に賛成して、独立準備政府の樹立を提唱します。また、南北分断を固定するものとして、米国主導の国連が進める南北朝鮮分離選挙を非難、48年1月に国連朝鮮臨時委員会が派遣した調査団が38度線以北に立ち入ることを拒否します。
しかし、金日成は、あくまで朝鮮全体を代表する統一政府樹立と外国軍隊の撤退を主張しながら、一方で47年11月から朝鮮民主主義人民共和国憲法制定会議、48年2月に抗日パルチザンを中心に朝鮮人民軍を創設するなど、北朝鮮の単独政権化を進めていきました。
48年4月に南朝鮮から左右超党派の南北協商代表が平壌を訪問し、金日成と会談した成果を「56団体共同声明」として発表します。しかし、続く第二回南北協商では、南朝鮮の右派重鎮・金九らが金日成による北朝鮮単独政権作りを非難し、参加を拒否したので、南北協商は挫折しました。
19.朝鮮民主主義人民共和国の成立
1948年8月、北朝鮮全土で選挙が実施され、韓国に近い海州でも南朝鮮人民代表者大会が開催されて、朝鮮最高人民会議議員が選出されました。9月9日、首都をソウル(平壌は暫定首都)とし、朝鮮全土を領土に主張する朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。
金日成は首相、副首相には南出身の南労党・朴憲永が就任し、その実態は北の海外勢力出身者と南の国内左派による連立政権でした。
一方、主要ポストは海外勢力が占めました。党・政府はソ連の後ろ盾を持つソ連派と、中国共産党と行動を共にしてきた延安派が握り、抗日パルチザン出身の満州派は朝鮮人民軍幹部を握ります。金日成は支持基盤や思惑がばらばらな各勢力の上で、バランスを取りながら権力を維持します。
金日成が絶対的な権力を握ったのは、1950年の朝鮮戦争で北朝鮮指導部が大打撃を受けてからでした。朝鮮人民軍は、南朝鮮人民から解放軍として歓迎されるどころか、予想以上の反撃を受けます。金日成は、南朝鮮解放の失敗は南労党をはじめ左派勢力の怠慢にあるとして、日本の朝鮮統治と戦ってきた国内左派を粛清し、独裁者になっていきます。
20.朝鮮人民軍の強大化
ソ連軍は48年12月に北朝鮮から撤退しますが、戦車などの重火器や軍事顧問団を朝鮮人民軍に残していきます。また、49年2月に金日成と朴憲永が訪ソして結ばれた朝ソ経済文化協力協定による借款と共に、秘密軍事協定が結ばれ、ソ連極東軍から高麗人部隊の6個歩兵師団、3個機械化部隊、航空機150機が秘密裏に供与されました。
当時、中国では国共内戦が激化しており、当初は満州で劣勢に立たされていた人民解放軍を金日成が支援して、中朝国境沿いに基地や避難場所を提供していたので、中国共産党は北朝鮮に恩義を感じていました。
ようやく中国全土の解放が視野に入った49年3月、北朝鮮と中国共産党との間に秘密軍事協定が結ばれ、中華人民共和国建国前には人民解放軍の中国朝鮮族兵士5万人が朝鮮人民軍に引き渡されます。編入された中国系兵士は全兵力の1/3にも及び、中国との強い一体感を持っていました。
21.そして開戦
1949年5月、中国の国共内戦はクライマックスを迎え、中華民国の首都・南京が人民解放軍の手に落ちます。金日成は南京陥落を契機に、共産勢力による朝鮮全土の解放を考えはじめました。
8月、金日成はソ連に対して武力統一を打診しますが、冷戦初期の東欧諸国囲い込みに忙しいスターリンは極東の戦争に巻き込まれることを嫌って反対します。
1949年10月、中華人民共和国が成立し、米国は50年1月にアチソン国務長官が極東防衛線を唱えますが、日本列島とフィリピンが含まれても韓国防衛には言及されません。米国は李承晩政権の暴走に手を焼いており、中国革命の波及を警戒しつつも対韓国政策が動揺していました。金日成は、極東防衛線から韓国が外されていることに注目し、朝鮮半島情勢に米国は介入しないと判断しました。
50年4月、再び訪ソした金日成と朴憲永はスターリンから、毛沢東の承諾を条件に開戦を認めてもらいました。翌月に訪問した中国側では、建国直後の混乱期に朝鮮戦争に巻き込まれることを嫌う意見が主流でしたが、毛沢東の一存で開戦支持を取り付けました。
1950年6月25日は日曜日、大韓民国軍首脳は前日夜のパーティから酔いが覚めておらず、対北朝鮮最前線に展開する韓国軍部隊も米国式に休暇を取っていました。そこへ、突然の朝鮮人民軍の砲撃が始まり、最新鋭の戦車部隊が攻め込みます。
米国から対戦車兵器を供与されていない韓国軍は各地で防衛線を破られて総崩れになり、李承晩政権はほうほうの体でソウルを脱出します。慌てた防衛司令部は、首都ソウルに韓国軍主力部隊や避難民を残したまま漢江の橋を落としたので、孤立した韓国軍はそのまま捕虜になりました。
開戦から3日後、ソウルは陥落し、朝鮮人民軍は怒涛の如く朝鮮半島を南下しました。3年間続く朝鮮戦争の始まりです。
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14.ソ連軍の北朝鮮占領
さて、北朝鮮はどんな状況だったのでしょうか。1945年8月9日に朝ソ国境を破って侵攻したソ連軍は、8月13日に清津を占領した時点で日本が敗戦します。そののち、8月21日、ソ連軍が日本海側の咸興に進駐すると、咸鏡南道の日本人知事から行政権を接取して、朝鮮人民委員会に委譲する占領政策を取りました。
これは咸興方式と呼ばれ、9月までにソ連軍が進駐した北緯38度線以北の地域で適用されました。
一方、8月15日にソウルで成立した建国準備会は、平安南道など北朝鮮各地でも自治組織を立ち上げ、曹晩植を代表に立てていました。
ソ連は9月20日に北朝鮮の占領方針を発表し、無理なソビエト化はせず、広範な人民代表によるブルジョワ民主主義政権を樹立する、としましたが、一方で、ソ連軍進駐地域に成立した建準を人民委員会と合作させ、ソ連人顧問を置きます。
15.金日成の誕生
9月19日、元山港に金成柱が到着しました。金成柱は父親に付いて満州に移民したのち、1933年から満州の東北抗日連軍に参加して頭角を現したパルチザン指導者です。中国共産党に所属したあと、関東軍の攻撃を逃れて1941年にソ連領へ脱出、ソ連極東軍の高麗人部隊を率いる部隊長になり、訓練を受けていました。
ソ連領沿海州には日本統治を嫌って逃げ込む朝鮮人が多く居住して、高麗人と呼ばれましたが、1930年代から高麗人を日本のスパイだと疑ったスターリンにより、中央アジアなどに民族ごと追放されていました。
第二次大戦が終盤になると、スターリンは高麗人を武装させて朝鮮を解放する構想を練り、実戦に間に合わなかったものの、ソ連極東軍に高麗人部隊を創設しました。これら海外勢力の朝鮮人は満州派と呼ばれて、ソ連軍占領行政を支えていきます。
10月、キリスト教民族主義者・曹晩植が委員長を務める北朝鮮五道行政局が成立します。一方、ソ連は金成柱を北朝鮮指導者にすることを考え、伝説的な抗日英雄の名を取って金日成に改名させた上で、10月の平壌市民大会に引っ張り出します。
市民は「朝鮮王朝の将軍が日本に抵抗して満州で活躍した」という英雄伝説から、白髪の老将軍を想像していましたが、実際に現れた金日成が33歳の若者だったので動揺しました。しかし、演説の巧みさは市民の疑惑を熱狂に変え、金成柱改め金日成は北朝鮮の実権を握ります。
16.北朝鮮における南北平和統一の挫折
ソ連占領下の北朝鮮でも、実は南北平和統一をめざす動きがありました。1945年11月、チスチャコフ将軍の非共産政権樹立声明を受けた曹晩植は、朝鮮民主党を結党して、金日成に合作を申し入れます。共産主義者の金日成も合意し、朝鮮独立、南北統一、民主主義の確立を掲げる民主党には30万人の党員が集まりました。
しかし、同月、新義州でソ連占領軍の横暴に抗議する学生デモに警察が発砲、23人が死亡、700人以上が負傷する事件が発生します。金日成はデモを反共・親日反動分子の仕業とし、キリスト教徒の多い平安道に不満を残します。
12月、金日成は朝鮮共産党北朝鮮分局の第一書記に就任し、まず北朝鮮を改革して民主基地とし、のちに全朝鮮を解放するという「民主基地」論を唱えます。
曹晩植は、民主基地論が朝鮮の分断を固定するとして反対し、先に南北統一政府を作り、その後改革を行うよう主張しました。また、曹晩植は、12月のモスクワ四カ国外相会談で決まった米英中ソ四カ国による信託統治に反対運動を唱えたため、行政局委員長を辞職させられたうえ、ソ連当局によって軟禁されます。
金日成は、曹晩植を「民主主義の敵」と弾劾し、朝鮮民主党は朝鮮共産党北朝鮮分局に吸収合併されました。
17.金日成政権の確立
1946年2月に五道行政局は北朝鮮臨時人民委員会と改称し、金日成政権が成立します。臨時人民委員会は3月から地主の土地を全て没収して農民に分配する土地改革を実施し、8月には重要産業国有化を実施、急速な社会主義化を行って親日派を一掃しました。
金日成は、ソウルに党中央を置く朝鮮共産党の支部であった北朝鮮分局を、北朝鮮共産党に改称して独立させます。さらに「民主基地」への組織一本化と称して国内政党、諸団体を糾合して北朝鮮労働党を発足させました。こうして、南北分断の固定化が進むと同時に、南朝鮮の左派運動を北朝鮮が指導するという北の優位性が確立しました。
1948年の済州島事件や麗水順天反乱事件は、南朝鮮の共産革命が近いことを思わせました。北朝鮮は地下に潜った南労党を指導して、南朝鮮各地の農村や中小都市で韓国軍や警察に対するゲリラ戦やテロ活動を展開します。
一方の北朝鮮国内の建設では、金日成の唱える「やれるときに一気にやって印象を残す」遊撃隊方式の改革が熱狂的な支持を受けて、経済的に困窮する南朝鮮に対して、北朝鮮では農業生産、工業生産ともに急上昇します。
抵抗者は弾圧されるか、38度線を越えて南へ逃げたので、政治的な反対者もなくなりました。しかし、国家建設のスタートがうまく行き過ぎたことは、金日成に対する個人崇拝の風潮を生み、金日成もだんだん自信過剰になっていきました。
18.南北協商の挫折と北朝鮮の単独政権化
1947年8月、金日成はモスクワ協定の米英中ソ四カ国朝鮮信託統治に賛成して、独立準備政府の樹立を提唱します。また、南北分断を固定するものとして、米国主導の国連が進める南北朝鮮分離選挙を非難、48年1月に国連朝鮮臨時委員会が派遣した調査団が38度線以北に立ち入ることを拒否します。
しかし、金日成は、あくまで朝鮮全体を代表する統一政府樹立と外国軍隊の撤退を主張しながら、一方で47年11月から朝鮮民主主義人民共和国憲法制定会議、48年2月に抗日パルチザンを中心に朝鮮人民軍を創設するなど、北朝鮮の単独政権化を進めていきました。
48年4月に南朝鮮から左右超党派の南北協商代表が平壌を訪問し、金日成と会談した成果を「56団体共同声明」として発表します。しかし、続く第二回南北協商では、南朝鮮の右派重鎮・金九らが金日成による北朝鮮単独政権作りを非難し、参加を拒否したので、南北協商は挫折しました。
19.朝鮮民主主義人民共和国の成立
1948年8月、北朝鮮全土で選挙が実施され、韓国に近い海州でも南朝鮮人民代表者大会が開催されて、朝鮮最高人民会議議員が選出されました。9月9日、首都をソウル(平壌は暫定首都)とし、朝鮮全土を領土に主張する朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。
金日成は首相、副首相には南出身の南労党・朴憲永が就任し、その実態は北の海外勢力出身者と南の国内左派による連立政権でした。
一方、主要ポストは海外勢力が占めました。党・政府はソ連の後ろ盾を持つソ連派と、中国共産党と行動を共にしてきた延安派が握り、抗日パルチザン出身の満州派は朝鮮人民軍幹部を握ります。金日成は支持基盤や思惑がばらばらな各勢力の上で、バランスを取りながら権力を維持します。
金日成が絶対的な権力を握ったのは、1950年の朝鮮戦争で北朝鮮指導部が大打撃を受けてからでした。朝鮮人民軍は、南朝鮮人民から解放軍として歓迎されるどころか、予想以上の反撃を受けます。金日成は、南朝鮮解放の失敗は南労党をはじめ左派勢力の怠慢にあるとして、日本の朝鮮統治と戦ってきた国内左派を粛清し、独裁者になっていきます。
20.朝鮮人民軍の強大化
ソ連軍は48年12月に北朝鮮から撤退しますが、戦車などの重火器や軍事顧問団を朝鮮人民軍に残していきます。また、49年2月に金日成と朴憲永が訪ソして結ばれた朝ソ経済文化協力協定による借款と共に、秘密軍事協定が結ばれ、ソ連極東軍から高麗人部隊の6個歩兵師団、3個機械化部隊、航空機150機が秘密裏に供与されました。
当時、中国では国共内戦が激化しており、当初は満州で劣勢に立たされていた人民解放軍を金日成が支援して、中朝国境沿いに基地や避難場所を提供していたので、中国共産党は北朝鮮に恩義を感じていました。
ようやく中国全土の解放が視野に入った49年3月、北朝鮮と中国共産党との間に秘密軍事協定が結ばれ、中華人民共和国建国前には人民解放軍の中国朝鮮族兵士5万人が朝鮮人民軍に引き渡されます。編入された中国系兵士は全兵力の1/3にも及び、中国との強い一体感を持っていました。
21.そして開戦
1949年5月、中国の国共内戦はクライマックスを迎え、中華民国の首都・南京が人民解放軍の手に落ちます。金日成は南京陥落を契機に、共産勢力による朝鮮全土の解放を考えはじめました。
8月、金日成はソ連に対して武力統一を打診しますが、冷戦初期の東欧諸国囲い込みに忙しいスターリンは極東の戦争に巻き込まれることを嫌って反対します。
1949年10月、中華人民共和国が成立し、米国は50年1月にアチソン国務長官が極東防衛線を唱えますが、日本列島とフィリピンが含まれても韓国防衛には言及されません。米国は李承晩政権の暴走に手を焼いており、中国革命の波及を警戒しつつも対韓国政策が動揺していました。金日成は、極東防衛線から韓国が外されていることに注目し、朝鮮半島情勢に米国は介入しないと判断しました。
50年4月、再び訪ソした金日成と朴憲永はスターリンから、毛沢東の承諾を条件に開戦を認めてもらいました。翌月に訪問した中国側では、建国直後の混乱期に朝鮮戦争に巻き込まれることを嫌う意見が主流でしたが、毛沢東の一存で開戦支持を取り付けました。
1950年6月25日は日曜日、大韓民国軍首脳は前日夜のパーティから酔いが覚めておらず、対北朝鮮最前線に展開する韓国軍部隊も米国式に休暇を取っていました。そこへ、突然の朝鮮人民軍の砲撃が始まり、最新鋭の戦車部隊が攻め込みます。
米国から対戦車兵器を供与されていない韓国軍は各地で防衛線を破られて総崩れになり、李承晩政権はほうほうの体でソウルを脱出します。慌てた防衛司令部は、首都ソウルに韓国軍主力部隊や避難民を残したまま漢江の橋を落としたので、孤立した韓国軍はそのまま捕虜になりました。
開戦から3日後、ソウルは陥落し、朝鮮人民軍は怒涛の如く朝鮮半島を南下しました。3年間続く朝鮮戦争の始まりです。
