石川雅之

 東浩紀が小説を書いているらしい。風の便りに、そのことを聞いたのは2年くらい前のことだったろうか。
 
 もう10年が経ってしまったが、『存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて-』(新潮社)が出たときの賑やかさが、今となっては懐かしい。「AERA」の表紙になったり、いくつかの雑誌では特集も組まれたほどだった。それに先立つ15年前に『構造と力』(勁草書房1983年)で社会現象を巻き起こした浅田彰に、自著と自身の存在とが「完全に過去のものとなった」(前掲書帯)と言わしめた気鋭が、小説を書いたとなれば、知らん顔はしていられない。
 文芸誌をこまめに手にしている訳ではないので、どんなものを書き始めたのかは知らずにいたのだが、昨年末、行きつけの書店の哲学書コーナーに「批評から小説へ」の帯がついた東浩紀の新刊が並んで、本当だったんだ、とすぐに購入した一冊である。


 ああ。
 そうなのね。
 わたしは彼の話を半分は理解しました。
 けれども残りの半分は理解できませんでした。(220頁)
 
 本書の中盤より少し後にある、この一節にほとんどの読者の感想は尽きるように思う。そんな人間がレビューを書くべきではない、との誹りは免れないだろうが、それでも、面白い、読んでいてワクワクする、と、まずはそう紹介したい作品なのである。
 
 展開そのものは、それほど複雑なものではない。本書でも触れられるのだが村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社1985年)とほぼ同様の構造で、仕掛けさえ理解してしまえば、文章がいたってシンプルなので、一気に読了できる。けれども、デリダやラカンに関する理解やコンピュータの知識が浅い者には、物語の根っこにあるのだろう「思想」そのものが、十分には捉えきれない。その意味において「残りの半分は理解できませんでした」と正直に言わざるを得ないのである。
 
 それでも、すべてはその語り口に拠るところが大きいのだが、物語世界の印象は一貫して清新さに溢れ、読む喜びにも満ちている。目を覆う惨劇が描かれもしているのだが、登場人物たちの内に向かっての独語が普遍性を有していて、明らかにSFと称すべき虚構なのに、日々の生活を営みつつ手にするだろう読者の日常と甚だしい隔たりがあるわけではない。おそらく物語の展開を堪能しつつ、何度も、なるほど、と膝を打つはずである。
 
 実際、ごく一般的な読者の誰もが、公私、という2つの生活を持ち、さらにまた多くがその上に、裏表と称するしかないような時間を生きている。深い知識に裏打ちされた東浩紀のせっかくの小説第一作を、なにも比喩的に受け取る必要はないのだが、誰もが等しく有する実相に重ねて読むことも、ひとつの読み方としては可能、としてもいいだろう。
 
 人は、たったひとつの人生を生きるのみの存在だが、その様相は複雑多岐にわたって、常にありとあらゆることを同時に抱え、考え、日々を重ねている。現象として目の前に現れなくても、ある事柄は、想念の内に確かに存在する。人の内面世界に時空の制限はない。そうした誰もに共通する生きてあることの実相が、東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』を読むことで見えてくるのである。
 
 コンピュータに係る知識になるが、複数の事柄、作業を同時に行うことを『マルチタスク」と言う。しかし、ひとつのCPUしかないコンピュータは、同時に複数の作業とはいっても、ある瞬間にはたったひとつの作業しか出来ない。そこで、CPUの処理時間を数十ミリ秒といった目にも留まらぬごく短い時間で区切って、次々と作業をこなすようにすることで、使う側からは同時にいくつものことが行われているように見える。その切り替えの間隔を「クォンタム」と言うんだよ、とPCに詳しい知人に教えてもらった。 もっと素朴に「量子家族」の訳語と受け取るだけでもいいのだが、 知人の教示によって記念すべき東浩紀の小説第一作のタイトルの奥深いところにあるものの理解に少しだけ近づいたように思えた。
 
 毀誉褒貶が予想されるが、新たな書き手の登場として歓迎したい佳作と評したい。


 参考
 新潮社公式サイト
 http://www.shinchosha.co.jp/book/426203/