前回記事:いまこそ中国論(14) 米国オバマ政権による日中分離工作?
http://www.janjannews.jp/archives/2550573.html
1.南沙諸島
南シナ海に浮かぶ小さな環礁や岩礁からなり、南沙諸島、西沙諸島、東沙諸島に分かれています。中国は全島の領有権を主張していますが、島々によりベトナム、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、台湾といった周辺国による実効支配や、領有権の主張があって入り乱れています。東アジアのシーレーン上に位置することや、海底油田の存在があるためどの国も譲らず、解決が難しい海域です。
この島々は第二次大戦中には日本が領有していました。1940年に日本が援蒋ルートを絶つため、ナチスドイツ占領下のフランス・ヴィシー政権に強要した仏印進駐の際に、フランス領インドシナ付属諸島を組み込んだものです。
1945年の敗戦で日本が放棄したのち、フランスに返還されるのが常識でしょうが、ベトナム民主共和国の成立やインドシナ戦争のどたばたで、フランスもベトミンも手を出せません。
そのとき手を出したのが、1946年にアジアの旧植民地国でいち早く独立したフィリピンでした。しかし、当時はそれほど価値のある島だとは思われず、その後、南ベトナムやマレーシア、中国、台湾がばらばらに空いた島々を占領していった結果が現在の状況です。
1992年にフィリピンに基地を置いていた米海軍・空軍が撤収すると、パワーバランスの空白を狙った中国海軍が同国支配地の島を占拠する事件もありました。
ちなみに、中国は対グアム牽制の原潜ルート上に位置する太平洋上の沖ノ鳥島について、「島ではなく岩」であり、日本に領有権はない旨の主張を行っています。一方、南沙諸島では岩の上に無理やり人工構造物を作って「島」であるとしており、いかに国益に関して主張が一致していないかが分かります。
2.江心坡
現在ミャンマー領カチン州の主要部を成している山岳地帯で、イラワジ川上流のメーカ川とマリカ川に挟まれた南北300km、東西100kmもの広大な地域です。
19世紀に英国がビルマ全土を植民地化すると、中国西南部の雲南辺境地帯が英国の脅威にさらされました。1890年、英国と清朝が国境確定を行い、中心都市の南坎を英国の永久租借地とした際にもこの地域は未定界とされ、その後も境界問題がくすぶりました。
中国側は、江心坡には伝統的にビルマ王朝の支配力が及ばず、カチン族の首長たちが雲南の漢人土司に年貢を納めてきたことを理由に中国領を主張しますが、英国は1913年と27年に軍事行動を起こして同地を占領しました。中華民国は在雲南英国領事に抗議し、抗日戦争中も英国の同地区占領を認めませんでした。
1949年に中国人民解放軍が雲南省に攻め込むと、李彌将軍率いる国民党軍はビルマ国境を越えて避難しました。さらに、前年に英国から独立したばかりのビルマ政府に対し、広大な国境地帯を中華民国に割譲するよう迫ります。1950年代には、国民党軍は米国の支援を受けながら、山岳地帯を根拠地に活発な反共ゲリラ活動を続けました。国民党軍は、戦費獲得のために麻薬ビジネスを手がけ、アヘンアーミーとして悪名を馳せました。
成立したばかりの中華人民共和国もビルマ連邦も、国境地帯に国民党軍と少数民族勢力が手を結んだ独立国が出現するのを恐れ、懸案であった国境問題の解決を急ぎました。
その結果、1960年の中緬辺界条約により中国側が江心坡と南坎をビルマに割譲し、両国軍の共同作戦により国民党軍の根拠地が破壊されます。
それでも国民党軍はしぶとく生き残り、タイ・ビルマ国境地帯に根拠地を構えてタイの反共政策に協力します。
魔境「黄金の三角地帯」と恐れられたタイ・ビルマ・ラオス国境地帯では、国民党兵士から麻薬王になったクンサ(張奇夫)などが出現し、ベトナム戦争時には世界のアヘン生産の8割を数えたというアヘン王国を築きますが、中台両岸の対立が緩和した1980年代、残留兵士の台湾復員や、タイへの帰化が行われました。
3.アルナチャルプラデシュ
インド北東部にあるヒマラヤ山麓の地方で、現在はアルナチャルプラデシュ州と呼ばれています。もともと伝統的にチベットの一部であるため中国が領有権を主張しており、日本の地図でも国境未定の係争地として扱われています。
清朝末期、英国とロシアの勢力圏争いが激しくなると、英国は英領インド北方に広がるチベット高原にロシアの影響力が及ぶのを恐れ、1890年と93年に清朝との間でチベットに関する条約を結んで清朝の宗主権を確認しました。ラサのダライラマ政府が頭越しに結ばれた条約の履行を拒否すると、1903年、英国軍はチベットを侵略してラサを占領、ダライラマ13世は北京に亡命しました。
英国は清朝に無断でチベットに関する保護条約を押し付け、1年後にラサ占領を解きました。こうした事態に1905年、四川総督趙爾豊は西蔵遠征軍を起し、1910年にはラサを占領して直接統治を敷いたため、ダライラマ13世は英領インドへ亡命しました。翌年、辛亥革命で清朝が倒れると、清朝軍はラサから追放されました。
ダライラマ政府は「文殊皇帝」がいなくなったことを理由に、モンゴルと共に中国からの独立を宣言しますが、その頃には英国とロシアの国益はヨーロッパにおけるドイツ帝国封じ込めで一致しており、英露協商においてチベットは英国の勢力圏と取り決められました。そこで英国は、中国の領土保全を理由としてチベット独立に反対し、その地位を決めるため、中華民国、チベット、英国によるシムラ会議を開きました。そこではチベットは中国領土である一方で、ダライラマ政権が完全な内政自治権を持つことが決められます。
しかし、チベットの範囲について両者の意見が紛糾しました。ダライラマ政権はカム(四川省)、アムド(青海省)も含めたチベット高原全体を主張しますが、中華民国はダライラマの施政権が及ぶエリア(現在のチベット自治区)のみがチベット地方であると主張して、会議を一方的に退席しました。
英国はお得意の二枚舌外交を使って漁夫の利を得ます。ダライラマ政権の主張に組みしてカム、アムドを含む広大な範囲をチベット領だと認める代わりに、ヒマラヤ山脈の稜線にマクマホンラインを引き、チベット族が居住し、伝統的、文化的にもチベット領土であったヒマラヤ山脈南麓のアルナチャル地方を割譲させて英領インドに併合しました。
中華民国はダライラマ政権が英国に領土を売り渡したと非難し、マクマホンラインを国境だと認めませんでした。一方の英国は、第二次大戦中に中立を志向したダライラマ政権に不満を抱き、1950年に中国人民解放軍がラサを占領した際にも、チベット支援を打ち出しませんでした。
アルナチャル地方は、1962年の中印国境紛争では領有権を巡って戦争になり、その大部分を中国人民解放軍が占領しました。その後、中国軍は一方的に撤退しましたが、中国政府は現在までマクマホンラインを国境と認めていません。
http://www.janjannews.jp/archives/2550573.html
1.南沙諸島
南シナ海に浮かぶ小さな環礁や岩礁からなり、南沙諸島、西沙諸島、東沙諸島に分かれています。中国は全島の領有権を主張していますが、島々によりベトナム、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、台湾といった周辺国による実効支配や、領有権の主張があって入り乱れています。東アジアのシーレーン上に位置することや、海底油田の存在があるためどの国も譲らず、解決が難しい海域です。
この島々は第二次大戦中には日本が領有していました。1940年に日本が援蒋ルートを絶つため、ナチスドイツ占領下のフランス・ヴィシー政権に強要した仏印進駐の際に、フランス領インドシナ付属諸島を組み込んだものです。
1945年の敗戦で日本が放棄したのち、フランスに返還されるのが常識でしょうが、ベトナム民主共和国の成立やインドシナ戦争のどたばたで、フランスもベトミンも手を出せません。
そのとき手を出したのが、1946年にアジアの旧植民地国でいち早く独立したフィリピンでした。しかし、当時はそれほど価値のある島だとは思われず、その後、南ベトナムやマレーシア、中国、台湾がばらばらに空いた島々を占領していった結果が現在の状況です。
1992年にフィリピンに基地を置いていた米海軍・空軍が撤収すると、パワーバランスの空白を狙った中国海軍が同国支配地の島を占拠する事件もありました。
ちなみに、中国は対グアム牽制の原潜ルート上に位置する太平洋上の沖ノ鳥島について、「島ではなく岩」であり、日本に領有権はない旨の主張を行っています。一方、南沙諸島では岩の上に無理やり人工構造物を作って「島」であるとしており、いかに国益に関して主張が一致していないかが分かります。
2.江心坡
現在ミャンマー領カチン州の主要部を成している山岳地帯で、イラワジ川上流のメーカ川とマリカ川に挟まれた南北300km、東西100kmもの広大な地域です。
19世紀に英国がビルマ全土を植民地化すると、中国西南部の雲南辺境地帯が英国の脅威にさらされました。1890年、英国と清朝が国境確定を行い、中心都市の南坎を英国の永久租借地とした際にもこの地域は未定界とされ、その後も境界問題がくすぶりました。
中国側は、江心坡には伝統的にビルマ王朝の支配力が及ばず、カチン族の首長たちが雲南の漢人土司に年貢を納めてきたことを理由に中国領を主張しますが、英国は1913年と27年に軍事行動を起こして同地を占領しました。中華民国は在雲南英国領事に抗議し、抗日戦争中も英国の同地区占領を認めませんでした。
1949年に中国人民解放軍が雲南省に攻め込むと、李彌将軍率いる国民党軍はビルマ国境を越えて避難しました。さらに、前年に英国から独立したばかりのビルマ政府に対し、広大な国境地帯を中華民国に割譲するよう迫ります。1950年代には、国民党軍は米国の支援を受けながら、山岳地帯を根拠地に活発な反共ゲリラ活動を続けました。国民党軍は、戦費獲得のために麻薬ビジネスを手がけ、アヘンアーミーとして悪名を馳せました。
成立したばかりの中華人民共和国もビルマ連邦も、国境地帯に国民党軍と少数民族勢力が手を結んだ独立国が出現するのを恐れ、懸案であった国境問題の解決を急ぎました。
その結果、1960年の中緬辺界条約により中国側が江心坡と南坎をビルマに割譲し、両国軍の共同作戦により国民党軍の根拠地が破壊されます。
それでも国民党軍はしぶとく生き残り、タイ・ビルマ国境地帯に根拠地を構えてタイの反共政策に協力します。
魔境「黄金の三角地帯」と恐れられたタイ・ビルマ・ラオス国境地帯では、国民党兵士から麻薬王になったクンサ(張奇夫)などが出現し、ベトナム戦争時には世界のアヘン生産の8割を数えたというアヘン王国を築きますが、中台両岸の対立が緩和した1980年代、残留兵士の台湾復員や、タイへの帰化が行われました。
3.アルナチャルプラデシュ
インド北東部にあるヒマラヤ山麓の地方で、現在はアルナチャルプラデシュ州と呼ばれています。もともと伝統的にチベットの一部であるため中国が領有権を主張しており、日本の地図でも国境未定の係争地として扱われています。
清朝末期、英国とロシアの勢力圏争いが激しくなると、英国は英領インド北方に広がるチベット高原にロシアの影響力が及ぶのを恐れ、1890年と93年に清朝との間でチベットに関する条約を結んで清朝の宗主権を確認しました。ラサのダライラマ政府が頭越しに結ばれた条約の履行を拒否すると、1903年、英国軍はチベットを侵略してラサを占領、ダライラマ13世は北京に亡命しました。
英国は清朝に無断でチベットに関する保護条約を押し付け、1年後にラサ占領を解きました。こうした事態に1905年、四川総督趙爾豊は西蔵遠征軍を起し、1910年にはラサを占領して直接統治を敷いたため、ダライラマ13世は英領インドへ亡命しました。翌年、辛亥革命で清朝が倒れると、清朝軍はラサから追放されました。
ダライラマ政府は「文殊皇帝」がいなくなったことを理由に、モンゴルと共に中国からの独立を宣言しますが、その頃には英国とロシアの国益はヨーロッパにおけるドイツ帝国封じ込めで一致しており、英露協商においてチベットは英国の勢力圏と取り決められました。そこで英国は、中国の領土保全を理由としてチベット独立に反対し、その地位を決めるため、中華民国、チベット、英国によるシムラ会議を開きました。そこではチベットは中国領土である一方で、ダライラマ政権が完全な内政自治権を持つことが決められます。
しかし、チベットの範囲について両者の意見が紛糾しました。ダライラマ政権はカム(四川省)、アムド(青海省)も含めたチベット高原全体を主張しますが、中華民国はダライラマの施政権が及ぶエリア(現在のチベット自治区)のみがチベット地方であると主張して、会議を一方的に退席しました。
英国はお得意の二枚舌外交を使って漁夫の利を得ます。ダライラマ政権の主張に組みしてカム、アムドを含む広大な範囲をチベット領だと認める代わりに、ヒマラヤ山脈の稜線にマクマホンラインを引き、チベット族が居住し、伝統的、文化的にもチベット領土であったヒマラヤ山脈南麓のアルナチャル地方を割譲させて英領インドに併合しました。
中華民国はダライラマ政権が英国に領土を売り渡したと非難し、マクマホンラインを国境だと認めませんでした。一方の英国は、第二次大戦中に中立を志向したダライラマ政権に不満を抱き、1950年に中国人民解放軍がラサを占領した際にも、チベット支援を打ち出しませんでした。
アルナチャル地方は、1962年の中印国境紛争では領有権を巡って戦争になり、その大部分を中国人民解放軍が占領しました。その後、中国軍は一方的に撤退しましたが、中国政府は現在までマクマホンラインを国境と認めていません。

中国は「チベットは中国の内政問題であるから、外国は口出しするな」というようなことを言います。この記事から、チベット問題は「国際問題」のように感じます。大切なことは、中国政府の言い分ではなく、「チベット人の“心”を知ること」だと思います。日本の知識人は「チベット人の“心”を知る」努力をする責務があるように思います。こうした「努力」こそ、「本当に平和を愛する、優しい知識人の証明」と思います。政治的に圧政下にある民族ほど気の毒な人はありません。日本の殖民地下にあった朝鮮民族は本当に気の毒だったと思います。
2010年2月7日の毎日新聞によりますと「今月後半、オバマ大統領がホワイトハウスでダライ・ラマと会談される」そうです。これに対し、中国は猛烈に抗議しているようです。ここに、「米国と中国の違い」を明確に感じるわけです。日本の知識人には、この問題になりますと、黙りこむ人がいるように思います。私は、このような人達は、「自分に都合の良いことは強く主張するが、都合の悪いことは断じて言わない」ように思います。日本と世界に望まれるのは「人道を愛する、さわやかな知識人」だと思います。