青木岳陽

 前回記事:いまこそ中国論(15) 中国の国境問題(1)
 http://www.janjannews.jp/archives/2563615.html
 
 1.珍宝島
 中国東北部とロシア沿海州の国境を流れるウスリー江には、たくさんの中洲があって、長年両国が領有権を巡って争ってきました。
 
 清朝が最盛期を誇った頃、満州族と同じようにモンゴル帝国の「タタールのくびき」を脱して勢力を拡大しつつあったロシア帝国は、シビル汗国を破ってウラル山脈を越え、コサック軍団を尖兵として無人に近いシベリアの荒野を東へ、東へと領土拡大を進めました。1686年、ロシアと清朝は激突し、軍事的に優勢な清朝がロシアを退けて国境画定と貿易を定めたネルチンスク条約を結びます。
 これは中国歴代王朝が初めて他国と対等な立場で結んだ国際条約でしたが、伝統的な華夷秩序を奉じる清朝政府はこれを対等なものと考えませんでした。ここに清朝が西洋諸国につけこまれる原因がありました。
 
 清朝末期、国力が疲弊しアヘン戦争や太平天国の乱でボロボロになったのを見て、ロシアは清朝による満州族の保護政策によって漢族農民の移住が禁止され、人口希薄地帯だった中国東北部に対し侵略行為を始めます。
 
 ロシアは1858年、オホーツク海へ通じる国際航路として通行権を認められていた黒龍江(アムール川)へ蒸気船団を送って威嚇すると、アイグン条約を結ばせて黒龍江北岸の土地を併合しました。また、第二次アヘン戦争(アロー戦争)で英仏連合と清朝の講和を仲介する見返りとして、1860年北京条約で黒龍江の支流・ウスリー江以東の沿海州を併合、広大な外満州を奪ってしまいます。
 
 外満州に住む清国人は、引き続き清国の管理下(江東六十四屯)に置かれていましたが、1900年に義和団事件が起き、暴徒がロシア領に押し寄せると、ロシア軍が数万人に及ぶ外満州居住清国人を全員殺害して黒龍江に流しました。清国人が消えた土地は、中国風の地名をロシア風に改名するなどして、ロシア本土化が図られます。
 さらに東清鉄道建設を認めさせ、遼東半島を租借して軍港を建設するなど、満州侵略を強めるロシアに対して日本では対露警戒論が噴出し、1905年の日露戦争につながりました。
 
 さて、黒龍江に限らず、国境を接する国際河川は慣例で河川両岸からの中間点が国境線とされ、国際航路として船舶の通行権が保証されます。しかし、ウスリー江は中洲が入り乱れて境界がはっきりしませんでした。
 ソ連は1945年の満州侵攻の際にこれらの中洲を占領し、満州からの撤退後も、新中国成立後も中国に返還しませんでした。
 
 中華人民共和国成立後の中ソの蜜月は短く、1960年代には両国は激しく対立します。国境問題に不満を募らせていた毛沢東は、文化大革命中の1969年にウスリー江の珍宝島などに人民解放軍を上陸させてソ連軍と戦闘になりました。
 共産国同士の戦争は世界を驚かせましたが、両国は核兵器保有国でもあり、毛沢東は軍需工場の疎開や核シェルター建設を行うなど、真剣にソ連との核戦争を考えるまでに追い込まれました。
 
 毛沢東死後も散発的な軍事衝突があった中ソ国境問題は、1989年ソ連のゴルバチョフ大統領訪中によって解決に動き出し、1994年にウスリー江両岸からの中間点を国境とし、中国側の中洲を返還することで合意しました。
 
 2.延辺朝鮮族自治州
 中国東北部と北朝鮮の国境地帯、吉林省延辺朝鮮族自治州は、人口の4割を朝鮮族が占める中国としては異色の地方です。中朝両国ともに辺境であったので、管理の手が及ばず、両国から隠れて住み着いた人々によって民族雑居地ができていました。
 
 もともと、伝統的な中華世界とは延辺からはるか離れた万里長城の内側を指し、その外側は遊牧民族が暮らす野蛮な土地とされていました。しかし、17世紀、ヌルハチが満州族を統一して清朝を建て、その子ホンタイジが山海関を破って中国内地へ攻め込むと、あっという間に漢族の明朝を滅ぼしてしまいました。
 
 こうして長城の内外がひとつになったものの、中国では幾多の征服王朝が中華文明に感化され、漢族に飲み込まれた歴史を持ちます。そこで清朝は、支配者の満州族が圧倒的多数の漢族に埋没しないよう、故地である東北への漢族移住を禁止し、中でも民族発祥の聖地・長白山周辺には一般人の立ち入りを許しませんでした。
 
 こうして人口希薄になってしまった東北に、19世紀にロシア、20世紀には日本が進出してきます。1860年にはアヘン戦争、アロー戦争のどさくさにまぎれてロシアに広大な外満州(沿海州:ウラジオストックとはロシア語で「東方を征服せよ」という意味)を奪われ、中国は日本海への出口を失いました。同年、清朝政府がようやく東北移住と開拓の奨励に踏み切ると、なだれを打って漢族が流れ込んで東北の最大民族となりました。
 
 さて、禁地だった長白山周辺の延辺地方(韓国では間島地域)には、李朝朝鮮や清朝の圧制を逃れて住み着く人がおり、朝鮮族と漢族が混住する雑居地域になっていました。
 両国は「トゥーメン江を国境にする」と決めますが、ここで問題が発生しました。長白山には「豆満江(図們江)」と「土門江」という2つの川があって、どちらも「トゥーメン江」だったからです。(トゥーメンとは満州語で「源流」の意味)
 両国の国境論争は続き、結局、韓国併合を狙っていた日本が、併合前年の1910年、清朝に取り入って「日清協定」を結んで中朝国境を中国に有利な「豆満江」にすると同意しました。
 
 こうして中国領になった延辺には、日本の植民地支配に抵抗する朝鮮人が逃げ込み、抗日ゲリラ活動を展開しました。さらに日本によって朝鮮人開拓団が大勢送り込まれたため、中国領でありながら朝鮮族が多数派を占めるようになりました。
 
 しかし、豆満江を国境と決めたのは日本と中国であって、当事者の韓国ではないため、当然ながら韓国は納得していません。北朝鮮は中国の意に逆らえないので国境問題は存在しませんが、韓国によって朝鮮半島が統一された日には、朝鮮族の多いこの辺りはちょっと複雑になってきます。
 中韓両国が日本との間に抱える竹島や尖閣諸島といった無人島の争いと違って、200万人もの人が暮らす土地、しかも韓国人にとっても民族発祥の聖地である長白山(韓国では白頭山)を擁する地方だからです。
 
 中国政府は先手を打って「東北工程」なる歴史研究プロジェクトを発足させています。そもそも中国東北部で興亡を繰り返した高句麗や渤海といった民族的に朝鮮系統の国々も全て中国の地方政権であり、韓国さえ中国の一部である、と言っているわけです。
 対する韓国には間島返還要求の動きもあります。北朝鮮情勢も含めて、目が離せない地域です。
 
 3.沖縄
 沖縄県の属する南西諸島は、現在は日本領ですが、かつては琉球王国であり、伝統的に中国の冊封体制に入っていました。江戸時代前期、薩摩藩が琉球征伐を行って間接支配下に置き、以降は清朝と薩摩藩の両属地とされました。
 
 明治維新後、琉球王国から日本の琉球藩とされた同地の帰属をめぐって日清両国はもめ、明治4年(1871)日清修好条規でも未定のままでした。日本政府は、琉球帰属問題を明らかにするために、同年、台湾に漂着して殺された石垣島住民に対して清朝の謝罪を求めます。
 清朝政府が台湾は「蛮地」であって原住民の起こした事件は管轄外だと回答すると、日本軍は台湾出兵を行って原住民を「征伐」しました。慌てた清朝は、台湾を自国領だと認めさせるため、やむなく日本政府への補償金の支払いに応じました。
 
 この事件を契機に、欧米列強諸国は日本の琉球領有を承認しました。
 明治12年、「琉球処分」により沖縄県が設置されると、清朝政府外務大臣・李鴻章は日本に抗議します。困った日本政府は、石垣島・宮古島など先島諸島を清国に割譲すると持ちかけますが、李鴻章は「沖縄本島は独立、奄美群島は日本領、先島諸島は清国領」の琉球三分割を主張して譲らず、結局、清国は琉球帰属権を未承認のまま、日清戦争で台湾を日本に割譲したため、うやむやになってしまいました。