前回記事:沖縄フォト紀行2010(8) 謝花悦子さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2564024.html
1月17日の午後は、読谷村歴史民俗資料館、座喜味城跡、シムクガマ、チビチリガマ、金城実さん(彫刻家)のアトリエ、嘉手納基地、と多くの場所に行った。案内してくださったのは、知る人ぞ知る知花昌一さんである。印象的だったのは、シムクガマ、チビチリガマなのだが、それは、(4)の「読谷村のガマを見る」に書いたので、今回は、知花さん自身のことについて書きとどめておきたい。

知花昌一さんの話(要約)
なぜ、日の丸を焼き捨てたのか
背景があります。沖縄の本土復帰は1972年ですが、それまで沖縄の人たちは、ことあるごとに日の丸を掲揚してきたんです。本土復帰以前は、僕も熱烈な日の丸少年でした。僕は、平和憲法の日本に憧れていました。今でも、僕は、当時の日の丸を持っています。しかし、本土復帰の後は、逆に日の丸を揚げる人が少なくなりました。失望も大きかったのです。
1987年の沖縄国体のソフトボール会場に読谷村が決まって、村長も日の丸掲揚に反対していたし、議会でも日の丸強制反対決議を採択していたんです。しかし、日本ソフトボール協会の弘瀬会長が、「日の丸・君が代をやらないなら国体を他に移す」と言ったんです。それで、協議を重ねて、メーンポールには国体旗を立て、日の丸は6本目の端っこに立てるということに決まっていたんです。
村としてもがんばったんだし、約束どおりの端っこなら、僕は日の丸を焼かなかったです。ところが、当日になって、弘瀬会長が「慣例なんだからメーンポールに立てろ!」と強行したんです。僕は、とっさにスコアボードに上がって、日の丸を引き下ろし、100円ライターで燃やしました。燃やせば、もう揚げられないと思いました。じっくり考えてそうしたわけではありません。体が動いたんです。スタンドからは、拍手喝采が起こりました。
旗というのは、識別表示の記号です。だから、船舶に立てたり、在外公館に日の丸を立てるのは、当然です。しかし、日の丸が、日本国内で日本国民に向けて振られるのは、国が外へ出て行く前触れです。戦争につながると思っています。
右翼の嫌がらせはなかったか
ありました。僕は、今は民宿を経営していますが、当時は、スーパーマーケットを経営していました。日の丸を焼いた翌々日から店を襲撃され始めました。商品を壊され、冷蔵庫を壊されました。翌年まで営業妨害は続きました。しかし、地域に支持されていたから、僕の店は潰れませんでした。1年間、寝室に水中銃を2本装てんした状態で置いて、寝ていました。
右翼の勉強会に、神戸に呼ばれたことがあります。僕を支援してくれている人たちは、皆反対したのですが、「命は保障する」ということでしたので、僕は行きました。空港に着くと、ベンツが迎えに来ていました。会場には、右翼は40人ほどいましたが、「殺す」とかわめいている人もいて、まとまりがなかったです。その時わかったことですが、僕の講演会などには、ドスをしのばせた人がうろついていたそうです。
なぜ、反戦地主になったのか
日本国憲法は、戦争を放棄しています。軍備を放棄しています。しかし、目の前に軍事基地があるのです。僕は1948年生まれですから、戦争を体験していません。しかし、僕は自分の村にあるチビチリガマの「集団自決」の調査をして、戦争がどんなものかということを、少しずつ追体験してきました。だから、戦争につながることは絶対にいやだという思いを持つようになりました。僕は、この生き方を貫こうと思っています。

僕のこの生き方は、日本国憲法の趣旨に合致していると思っています。憲法には、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と書かれています。僕は、自分の土地を米軍に貸さないということは、憲法の精神に基づく正しい生き方だと思っています。僕を「非国民」だという人がいますが、「非国民」がもっと増えれば、この国はよくなると思っています。

筆者の感想
『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』(屋嘉比収著・世織書房)には、「沖縄県内の市町村史の戦争体験記録集の最高水準を示したのが、2002年と2004年に発刊された『読谷村史』における戦時記録編(上・下)である。」と書かれている。知花さんは、1998年から読谷村の村議をしているのだから、この『読谷村史』と深くかかわっていたはずである。私は、最初、知花さんのガマの説明を聞きながら、(この人もオレと同じ本を読んでいるな)と思ったのだが、よく考えてみると、話は逆だったのだ。知花さんこそは、シムクガマ、チビチリガマ研究の第一の権威であったのだ。
「『集団自決』の犠牲になったのは、83人といわれていますが、84人が正確なのです。生後3ヶ月の赤ちゃんがいたんです。幼すぎて、死後に頭骨が残りませんでした。また、人々の記憶にも残っていなかったのです」と知花さんは解説した。しかし、その深く埋もれていた事実をどうして知花さんは発掘できたのか。それは、事件から65年の歳月が流れているにもかかわらず、知花さんが彼らと運命をともにしているからではないだろうか。知花さんの「当事者性の身体化」が、生後3ヶ月で戦争の犠牲になった人の存在を歴史の舞台に浮かび上がらせたのだ、と思う。
(参考資料)
『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』(屋嘉比収著・世織書房)
『命こそ宝』(阿波根昌鴻著・岩波新書)
(関連記事)
沖縄フォト紀行2010(1) 普天間基地を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2371571.html
沖縄フォト紀行2010(2) 辺野古の海を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2394948.html
沖縄フォト紀行2010(3) 伊江島の畑を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2428596.html
沖縄フォト紀行2010(4) 読谷村のガマを見る
http://www.janjannews.jp/archives/2453148.html
沖縄フォト紀行2010(5) 首里城の赤瓦を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2479706.html
沖縄フォト紀行2010(6) 佐喜眞道夫さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2514920.html
沖縄フォト紀行2010(7) 豊見山雅裕さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2542706.html
沖縄フォト紀行2010(8) 謝花悦子さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2564024.html
沖縄フォト紀行2010(9) 知花昌一さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2575712.html
沖縄フォト紀行2010(10) 金城実さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2600735.html
沖縄フォト紀行2010(11) 藤本幸久さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2613694.html
沖縄フォト紀行2010(12) くずめよしさんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2771440.html
沖縄フォト紀行2010(13) まとめ
http://www.janjannews.jp/archives/2821192.html
(関連リンク)
佐喜眞美術館
http://sakima.jp/
http://www.janjannews.jp/archives/2564024.html
1月17日の午後は、読谷村歴史民俗資料館、座喜味城跡、シムクガマ、チビチリガマ、金城実さん(彫刻家)のアトリエ、嘉手納基地、と多くの場所に行った。案内してくださったのは、知る人ぞ知る知花昌一さんである。印象的だったのは、シムクガマ、チビチリガマなのだが、それは、(4)の「読谷村のガマを見る」に書いたので、今回は、知花さん自身のことについて書きとどめておきたい。

洞窟の闇から出て、チビチリガマの84名の「集団自決」について話し終えたとき、知花さんの目に光るものがあった。(以下、すべて筆者撮影)
知花昌一さんの話(要約)
なぜ、日の丸を焼き捨てたのか
背景があります。沖縄の本土復帰は1972年ですが、それまで沖縄の人たちは、ことあるごとに日の丸を掲揚してきたんです。本土復帰以前は、僕も熱烈な日の丸少年でした。僕は、平和憲法の日本に憧れていました。今でも、僕は、当時の日の丸を持っています。しかし、本土復帰の後は、逆に日の丸を揚げる人が少なくなりました。失望も大きかったのです。
1987年の沖縄国体のソフトボール会場に読谷村が決まって、村長も日の丸掲揚に反対していたし、議会でも日の丸強制反対決議を採択していたんです。しかし、日本ソフトボール協会の弘瀬会長が、「日の丸・君が代をやらないなら国体を他に移す」と言ったんです。それで、協議を重ねて、メーンポールには国体旗を立て、日の丸は6本目の端っこに立てるということに決まっていたんです。
村としてもがんばったんだし、約束どおりの端っこなら、僕は日の丸を焼かなかったです。ところが、当日になって、弘瀬会長が「慣例なんだからメーンポールに立てろ!」と強行したんです。僕は、とっさにスコアボードに上がって、日の丸を引き下ろし、100円ライターで燃やしました。燃やせば、もう揚げられないと思いました。じっくり考えてそうしたわけではありません。体が動いたんです。スタンドからは、拍手喝采が起こりました。
旗というのは、識別表示の記号です。だから、船舶に立てたり、在外公館に日の丸を立てるのは、当然です。しかし、日の丸が、日本国内で日本国民に向けて振られるのは、国が外へ出て行く前触れです。戦争につながると思っています。
右翼の嫌がらせはなかったか
ありました。僕は、今は民宿を経営していますが、当時は、スーパーマーケットを経営していました。日の丸を焼いた翌々日から店を襲撃され始めました。商品を壊され、冷蔵庫を壊されました。翌年まで営業妨害は続きました。しかし、地域に支持されていたから、僕の店は潰れませんでした。1年間、寝室に水中銃を2本装てんした状態で置いて、寝ていました。
右翼の勉強会に、神戸に呼ばれたことがあります。僕を支援してくれている人たちは、皆反対したのですが、「命は保障する」ということでしたので、僕は行きました。空港に着くと、ベンツが迎えに来ていました。会場には、右翼は40人ほどいましたが、「殺す」とかわめいている人もいて、まとまりがなかったです。その時わかったことですが、僕の講演会などには、ドスをしのばせた人がうろついていたそうです。
なぜ、反戦地主になったのか
日本国憲法は、戦争を放棄しています。軍備を放棄しています。しかし、目の前に軍事基地があるのです。僕は1948年生まれですから、戦争を体験していません。しかし、僕は自分の村にあるチビチリガマの「集団自決」の調査をして、戦争がどんなものかということを、少しずつ追体験してきました。だから、戦争につながることは絶対にいやだという思いを持つようになりました。僕は、この生き方を貫こうと思っています。

チビチリガマの入り口付近に大きなガジュマルの木がある。「集団自決」の後、苗を植えた人がいたのだ。今では、直径2mくらいに育っている。
僕のこの生き方は、日本国憲法の趣旨に合致していると思っています。憲法には、「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と書かれています。僕は、自分の土地を米軍に貸さないということは、憲法の精神に基づく正しい生き方だと思っています。僕を「非国民」だという人がいますが、「非国民」がもっと増えれば、この国はよくなると思っています。

チビチリガマの入り口に、金城実さん(彫刻家)の「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」がある。右翼によって1度破壊されたが、再建された。
筆者の感想
『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』(屋嘉比収著・世織書房)には、「沖縄県内の市町村史の戦争体験記録集の最高水準を示したのが、2002年と2004年に発刊された『読谷村史』における戦時記録編(上・下)である。」と書かれている。知花さんは、1998年から読谷村の村議をしているのだから、この『読谷村史』と深くかかわっていたはずである。私は、最初、知花さんのガマの説明を聞きながら、(この人もオレと同じ本を読んでいるな)と思ったのだが、よく考えてみると、話は逆だったのだ。知花さんこそは、シムクガマ、チビチリガマ研究の第一の権威であったのだ。
「『集団自決』の犠牲になったのは、83人といわれていますが、84人が正確なのです。生後3ヶ月の赤ちゃんがいたんです。幼すぎて、死後に頭骨が残りませんでした。また、人々の記憶にも残っていなかったのです」と知花さんは解説した。しかし、その深く埋もれていた事実をどうして知花さんは発掘できたのか。それは、事件から65年の歳月が流れているにもかかわらず、知花さんが彼らと運命をともにしているからではないだろうか。知花さんの「当事者性の身体化」が、生後3ヶ月で戦争の犠牲になった人の存在を歴史の舞台に浮かび上がらせたのだ、と思う。
(参考資料)
『沖縄戦、米軍占領史を学びなおす』(屋嘉比収著・世織書房)
『命こそ宝』(阿波根昌鴻著・岩波新書)
(関連記事)
沖縄フォト紀行2010(1) 普天間基地を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2371571.html
沖縄フォト紀行2010(2) 辺野古の海を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2394948.html
沖縄フォト紀行2010(3) 伊江島の畑を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2428596.html
沖縄フォト紀行2010(4) 読谷村のガマを見る
http://www.janjannews.jp/archives/2453148.html
沖縄フォト紀行2010(5) 首里城の赤瓦を見る
http://www.janjannews.jp/archives/2479706.html
沖縄フォト紀行2010(6) 佐喜眞道夫さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2514920.html
沖縄フォト紀行2010(7) 豊見山雅裕さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2542706.html
沖縄フォト紀行2010(8) 謝花悦子さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2564024.html
沖縄フォト紀行2010(9) 知花昌一さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2575712.html
沖縄フォト紀行2010(10) 金城実さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2600735.html
沖縄フォト紀行2010(11) 藤本幸久さんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2613694.html
沖縄フォト紀行2010(12) くずめよしさんと会った
http://www.janjannews.jp/archives/2771440.html
沖縄フォト紀行2010(13) まとめ
http://www.janjannews.jp/archives/2821192.html
(関連リンク)
佐喜眞美術館
http://sakima.jp/
