私は夜中に目が覚めて眠れないとき、ネットでGyaoのホームページを開いて、無料の映画やドラマを見る。
今回見たのは、昭和TVに組み込まれた市川昆監督、竹山道雄原作の『ビルマの竪琴』という1956年(昭和31年)に作られたモノクロ映画だ。
題名だけは知っていたが、見たのは3日前だから、映画が作られてから54年後にはじめて見たことになる。内容をもっと詳しく知りたいと思って、図書館から同名の本を2冊借りてきた。
1冊は偕成社文庫で、1976年に初版が出され、1990年までに44刷刊行された。もう一つは、少年少女文学館シリーズ16で、1986年に講談社から出版されて、1991年までに8回増刷された。
原作は1947年、雑誌『赤とんぼ』には連載されて、翌年中央公論社より単行本として刊行され、その翌年には毎日出版文化賞を受賞している。だからよく知られている作品だと思う。
著者の竹山道雄は1923年東京帝国大学文学部に入学(当時20歳)。美学からドイツ文学に移り、卒業後第1高等学校講師となる。1937年34歳の時、『日本小国民文庫』(新潮社)全16巻の編集に参加して、山本有三(代表作『路傍の石』、ドイツ文学者高橋健二、英文学者吉田甲子太郎、児童文学者石井桃子、哲学者吉野源三郎と交流したことが、この『ビルマの竪琴』を作るのに大きな影響を与えたのではないか、といわれている。
私が読んだ2冊目の本は、日本近代文学館が監修し、本文の注釈を小田切進が行い、高田勲による本格派の挿絵が見られるし、全文にルビがついていて字も大きいから、大人向け全集の小さな文字で神経衰弱にならずにすむ。
文中には注釈もあり、言葉や器物の説明があって読みやすい。これは私のような高齢者には老眼鏡・拡大鏡の世話にならずに読める大変ありがたい編集である。
ストーリーを次に説明する。
◇
1945年夏、敗残の日本軍はビルマの国境を越え、タイ国へ逃れようとしていたが、その中に手づくりの堅琴の伴奏に合わせて合唱する井上小隊があった。(隊長は若き三国錬太郎)、竪琴の奏者水島上等兵(安井昌次)、現地人に変装しては斥候の任務を果し、竪琴の音を合図に小隊を無事に退避させていた。敗戦を知り、小隊は国境の近くで武器を捨てた。彼らは遥か南のムドンに送られることになった。
隊長の命令で水島上等兵は、三角山を固守して抵抗を続ける日本軍に降伏の説得に向い消息を絶った。あとでわかるのだが、水島上等兵はイギリス軍から30分の猶予を貰い、三角山に閉じこもる部隊の説得に失敗し、負傷して意識を失う。
人食い人種といわれる部落の人に助けられて、そこの酋長の娘と結婚を強いられる。雷鳴が鳴り、竪琴をかき鳴らし逃げる。その途中で無数の日本兵の遺体を発見。僧になった水島は、同じ戦場に放置されている日本兵の遺骨を埋葬することを決意して橋をわたるとき、元の小隊の兵士たちとすれ違うが、自分をあかそうとしない。その決意を実行するするために。
2羽のオウムと水島上等兵が所属していた「歌う小隊」、ビルマの僧になり、オウムの取り持つ縁、収容所に物売りに来る老婆(北林谷栄)のやり取りは、この物語の第三の山場だろう。
老婆から渡されて水島の手紙を引き上げ船の中で読む小隊長と隊員の静かなふるまいは、破壊された日本本土がどのようになっているか知らないだけに強い印象を与える最後の場面だ。
作者は、なぜこの「ビルマの竪琴」を書いたのだろうか?
解説者・保昌正夫は言う。
「これが書かれたのは、敗戦直後の昭和21,22年で、戦後の混乱期のなかで、民主主義が叫ばれながら、日本人は、文字通り右往左往していた。日本人全部が虚脱状態という状況下にあった。 引揚げ船の中で読み上げられる水島の手紙は、それから40年以上経ったいまでも人間が世界に対する態度の根本に触れている。原子爆弾まで出来た時代だからこそ、人間はもっと落ち着いて深く考えねばならぬ、という言葉は現代にも生きている」と。
また、西尾幹二は次のように書いている。
「ビルマの竪琴」は、必ずしも太平洋戦争の最前線で起こった敗戦のドラマの一つであるだけでなく、戦後のいわゆる経済繁栄を謳歌してきた、われわれ日本人一般の生き方に反省を求めている。一種の文明批評の役割を果たしている。
今回見たのは、昭和TVに組み込まれた市川昆監督、竹山道雄原作の『ビルマの竪琴』という1956年(昭和31年)に作られたモノクロ映画だ。
題名だけは知っていたが、見たのは3日前だから、映画が作られてから54年後にはじめて見たことになる。内容をもっと詳しく知りたいと思って、図書館から同名の本を2冊借りてきた。
1冊は偕成社文庫で、1976年に初版が出され、1990年までに44刷刊行された。もう一つは、少年少女文学館シリーズ16で、1986年に講談社から出版されて、1991年までに8回増刷された。
原作は1947年、雑誌『赤とんぼ』には連載されて、翌年中央公論社より単行本として刊行され、その翌年には毎日出版文化賞を受賞している。だからよく知られている作品だと思う。
著者の竹山道雄は1923年東京帝国大学文学部に入学(当時20歳)。美学からドイツ文学に移り、卒業後第1高等学校講師となる。1937年34歳の時、『日本小国民文庫』(新潮社)全16巻の編集に参加して、山本有三(代表作『路傍の石』、ドイツ文学者高橋健二、英文学者吉田甲子太郎、児童文学者石井桃子、哲学者吉野源三郎と交流したことが、この『ビルマの竪琴』を作るのに大きな影響を与えたのではないか、といわれている。
私が読んだ2冊目の本は、日本近代文学館が監修し、本文の注釈を小田切進が行い、高田勲による本格派の挿絵が見られるし、全文にルビがついていて字も大きいから、大人向け全集の小さな文字で神経衰弱にならずにすむ。
文中には注釈もあり、言葉や器物の説明があって読みやすい。これは私のような高齢者には老眼鏡・拡大鏡の世話にならずに読める大変ありがたい編集である。
ストーリーを次に説明する。
1945年夏、敗残の日本軍はビルマの国境を越え、タイ国へ逃れようとしていたが、その中に手づくりの堅琴の伴奏に合わせて合唱する井上小隊があった。(隊長は若き三国錬太郎)、竪琴の奏者水島上等兵(安井昌次)、現地人に変装しては斥候の任務を果し、竪琴の音を合図に小隊を無事に退避させていた。敗戦を知り、小隊は国境の近くで武器を捨てた。彼らは遥か南のムドンに送られることになった。
隊長の命令で水島上等兵は、三角山を固守して抵抗を続ける日本軍に降伏の説得に向い消息を絶った。あとでわかるのだが、水島上等兵はイギリス軍から30分の猶予を貰い、三角山に閉じこもる部隊の説得に失敗し、負傷して意識を失う。
人食い人種といわれる部落の人に助けられて、そこの酋長の娘と結婚を強いられる。雷鳴が鳴り、竪琴をかき鳴らし逃げる。その途中で無数の日本兵の遺体を発見。僧になった水島は、同じ戦場に放置されている日本兵の遺骨を埋葬することを決意して橋をわたるとき、元の小隊の兵士たちとすれ違うが、自分をあかそうとしない。その決意を実行するするために。
2羽のオウムと水島上等兵が所属していた「歌う小隊」、ビルマの僧になり、オウムの取り持つ縁、収容所に物売りに来る老婆(北林谷栄)のやり取りは、この物語の第三の山場だろう。
老婆から渡されて水島の手紙を引き上げ船の中で読む小隊長と隊員の静かなふるまいは、破壊された日本本土がどのようになっているか知らないだけに強い印象を与える最後の場面だ。
作者は、なぜこの「ビルマの竪琴」を書いたのだろうか?
解説者・保昌正夫は言う。
「これが書かれたのは、敗戦直後の昭和21,22年で、戦後の混乱期のなかで、民主主義が叫ばれながら、日本人は、文字通り右往左往していた。日本人全部が虚脱状態という状況下にあった。 引揚げ船の中で読み上げられる水島の手紙は、それから40年以上経ったいまでも人間が世界に対する態度の根本に触れている。原子爆弾まで出来た時代だからこそ、人間はもっと落ち着いて深く考えねばならぬ、という言葉は現代にも生きている」と。
また、西尾幹二は次のように書いている。
「ビルマの竪琴」は、必ずしも太平洋戦争の最前線で起こった敗戦のドラマの一つであるだけでなく、戦後のいわゆる経済繁栄を謳歌してきた、われわれ日本人一般の生き方に反省を求めている。一種の文明批評の役割を果たしている。

感じ方は人それぞれなのでしょうが、幼いながらに先の戦争で戦死された多くの兵隊さん達に感謝の様な感情を抱いた気がします。
今、単純に軍を悪者扱いしたり、能天気な平和主義を唱える人々に軽蔑を覚えるのもその影響かも知れません。でも、先人に恥ずかしくは無いと思えるのはよかったと思います。