前回記事:春光眩しい清澄庭園を歩く(上)
http://www.janjannews.jp/archives/2869987.html
清澄庭園には、私たち戦後生まれの人間が知らない歴史がある。この庭園の最盛期は、明治から大正にかけての時代であったが、その頃には、現在の倍の三万坪の規模であった。

庭園の西北には、鹿鳴館や丸の内の三菱一号館をデザインした日本近代建築の父ジョサイア・コンドル(1852-1920)の設計によるバルコニー付き赤レンガ2階建ての洋館が威風堂々と立っていた。また、現在の入口横に立つ大正記念館の辺りに日本館が存在した。
ある時、庭園は、大きな転換期を迎える。大正12年(1923)の関東大震災だ。洋館、日本館とも、この歴史的な災害によって全壊してしまう。しかしながら、この広い庭園は、大震災で被災した下町住民の避難所となり、東京復興のひとつの拠点となった。
この時、俄に池は東京復興のための材木貯蔵池として、洋館跡は製材所として活用された。災害の翌年(1924)には、庭園を所有していた三菱財閥の3代目のリーダー岩崎久弥(弥太郎の息子:1865ー1955)が、現在の清澄庭園となる東半分を東京市に寄贈し、昭和7年(1932)、市はこれを整備し開園をする。
しかし昭和20年(1945)3月10日未明、わずか2時間半で、10万人を超える住民がB29による焼夷弾による無差別爆撃を受けて死亡した。この大空襲で、清澄庭園もまた壊滅的な打撃を受ける。ところがこの庭園は、心ならずも亡くなった住民の仮埋葬所となり、生き延びた住民の避難所となり、瀕死の人々の救済の場となって機能した。そんな歴史を、清澄庭園は持っている。
思うにこの庭園は、ただその形状や整備が行き届いているから美しいのではない。理不尽な災害や戦禍が住民を襲う度、地元の人々の命のより所となってきた歴史が、庭園のいたることころに染みついているのを切ないほどに感じるのだが、もしかするとこの庭園に足を踏み入れる者が、不思議な安らぎを得るのは、そのためかもしれない・・・。
そんなことを思いながら、この清澄庭園を歩いていると、関東大震災や東京大空襲は、遠い夢のような気がした。それほど2010年3月11日の春光は、実に長閑で、この世に極楽浄土が現出したかのようであった。

実際、私ははっきりと東京大空襲のことを聞いたことがある。橋の名は忘れてしまったが、その女性はこのように言った。
「焼夷弾による爆撃で、橋の欄干の下に隠れた人が、橋からヌラリとした感じで流れ落ちる焼夷弾の業火に包まれて、焼かれていくのが見えた。翌日、行ってみると、その場所は、黒く人の影がはっきりと着いていた。何年か前に、同じ場所に行ったが、いまだにその跡が、私には見えた」
それから、「日本堤近くの公園には、空襲で亡くなった人が山と積まれていて、夜になると、そこかしこから、人魂がふらふらと飛び出して来るのよ。しかし感覚がマヒしていることもあって、少しも怖くない。むしろキレイだなと思った」という話もあった。
おそらくは、この清澄庭園にも、それに近い話があるのだろう、と思う。私たちの少し前の時代の先輩たちは、そのような悲惨な目に遭いながら、その度に焦土から立ち上がり、奇跡とまで言われるような復興を遂げてきたのである。一見、庭園というものは、だだっ広くて、この世知辛い世の中では、無駄のように思われるが、実はその逆で、人間の感性に憩いを与え、また非常時には、この広いスペースこそが、災害からの隠れ家となるものである。

この清澄庭園の春光を浴びながら、高層化されるビルの影が、周辺に拡がっていることに一瞬、危惧の念を感じた。そして、この清澄庭園の美しい景色が維持されることこそが、日本人の「文化度」と「感性」の高さのバロメーターになる、そのように思った。
http://www.janjannews.jp/archives/2869987.html
清澄庭園には、私たち戦後生まれの人間が知らない歴史がある。この庭園の最盛期は、明治から大正にかけての時代であったが、その頃には、現在の倍の三万坪の規模であった。
清澄庭園周辺に迫る高層化の影(10年3月11日 筆者撮影)
庭園の西北には、鹿鳴館や丸の内の三菱一号館をデザインした日本近代建築の父ジョサイア・コンドル(1852-1920)の設計によるバルコニー付き赤レンガ2階建ての洋館が威風堂々と立っていた。また、現在の入口横に立つ大正記念館の辺りに日本館が存在した。
ある時、庭園は、大きな転換期を迎える。大正12年(1923)の関東大震災だ。洋館、日本館とも、この歴史的な災害によって全壊してしまう。しかしながら、この広い庭園は、大震災で被災した下町住民の避難所となり、東京復興のひとつの拠点となった。
この時、俄に池は東京復興のための材木貯蔵池として、洋館跡は製材所として活用された。災害の翌年(1924)には、庭園を所有していた三菱財閥の3代目のリーダー岩崎久弥(弥太郎の息子:1865ー1955)が、現在の清澄庭園となる東半分を東京市に寄贈し、昭和7年(1932)、市はこれを整備し開園をする。
しかし昭和20年(1945)3月10日未明、わずか2時間半で、10万人を超える住民がB29による焼夷弾による無差別爆撃を受けて死亡した。この大空襲で、清澄庭園もまた壊滅的な打撃を受ける。ところがこの庭園は、心ならずも亡くなった住民の仮埋葬所となり、生き延びた住民の避難所となり、瀕死の人々の救済の場となって機能した。そんな歴史を、清澄庭園は持っている。
思うにこの庭園は、ただその形状や整備が行き届いているから美しいのではない。理不尽な災害や戦禍が住民を襲う度、地元の人々の命のより所となってきた歴史が、庭園のいたることころに染みついているのを切ないほどに感じるのだが、もしかするとこの庭園に足を踏み入れる者が、不思議な安らぎを得るのは、そのためかもしれない・・・。
そんなことを思いながら、この清澄庭園を歩いていると、関東大震災や東京大空襲は、遠い夢のような気がした。それほど2010年3月11日の春光は、実に長閑で、この世に極楽浄土が現出したかのようであった。

雪灯籠の上で水鳥がわが世の春を謳歌している
実際、私ははっきりと東京大空襲のことを聞いたことがある。橋の名は忘れてしまったが、その女性はこのように言った。
「焼夷弾による爆撃で、橋の欄干の下に隠れた人が、橋からヌラリとした感じで流れ落ちる焼夷弾の業火に包まれて、焼かれていくのが見えた。翌日、行ってみると、その場所は、黒く人の影がはっきりと着いていた。何年か前に、同じ場所に行ったが、いまだにその跡が、私には見えた」
それから、「日本堤近くの公園には、空襲で亡くなった人が山と積まれていて、夜になると、そこかしこから、人魂がふらふらと飛び出して来るのよ。しかし感覚がマヒしていることもあって、少しも怖くない。むしろキレイだなと思った」という話もあった。
おそらくは、この清澄庭園にも、それに近い話があるのだろう、と思う。私たちの少し前の時代の先輩たちは、そのような悲惨な目に遭いながら、その度に焦土から立ち上がり、奇跡とまで言われるような復興を遂げてきたのである。一見、庭園というものは、だだっ広くて、この世知辛い世の中では、無駄のように思われるが、実はその逆で、人間の感性に憩いを与え、また非常時には、この広いスペースこそが、災害からの隠れ家となるものである。
清澄庭園の美が維持されることこそが日本文化のバロメーターとなる
この清澄庭園の春光を浴びながら、高層化されるビルの影が、周辺に拡がっていることに一瞬、危惧の念を感じた。そして、この清澄庭園の美しい景色が維持されることこそが、日本人の「文化度」と「感性」の高さのバロメーターになる、そのように思った。
